イタリア「カゼルタとカゼルタヴェッキア」〜世界遺産の宮殿と中世の街

イタリア「カゼルタとカゼルタヴェッキア」〜世界遺産の宮殿と中世の街

更新日:2017/02/01 14:34

南イタリアには、個性的な自然景観と、イタリア中北部とは異る歴史を持つ、興味深いスポットが点在しています。歴史的には、中世からイタリアが統一される19世紀半ばまで王に支配されたことと、その王たちが皆異国からやってきたことが特徴です。新旧二つのカゼルタの「街」に、そんな900年に渡る「王国」史をたどってみましょう。

平野と海とヴェスヴィオ山を見下ろす街、カゼルタヴェッキア

平野と海とヴェスヴィオ山を見下ろす街、カゼルタヴェッキア
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カゼルタ駅はナポリ中央駅から列車で1時間弱、世界遺産に登録されている18世紀の王宮と庭園はすぐ目の前ですが、取り急ぎ103番のバスに乗り、カゼルタベッキアを目指します。やはり歴史は時間の流れの通りにたどるのが良いだろうということと、お目当ての教会の長いお昼休みを避けたいからです。おまけに、カゼルタヴェッキアには美味しいレストランが何軒かある、というのもありますが。

バスは一時間に一本程度ですので、タイミングが合わない時はタクシーを利用しましょう。距離にして10キロ、高さにして400メートルを登っていきます。バスを降りて振り返れば、なだらかに海まで続く平野と、その先のナポリ湾と、海の上に浮かぶベスヴィオ山という雄大なパノラマが望めます。

元祖カゼルタと9世紀の城

元祖カゼルタと9世紀の城
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9世紀の南イタリアは、ゲルマンの一民族であるランゴバルド人によって支配されていました。中北部では既に滅びているランゴバルド王国ですが、南部では三つの侯国に分裂して勢力を保っていました。この時代、海からほど近い平野部の住人はイスラム教徒の襲撃に悩まされ、内陸の丘の上に逃れて暮らしはじめます。このカーゼ・エルタ(高台の家)がカゼルタの語源。現在のカゼルタヴェッキアの「ヴェッキア」は「古い」という意味で、新しい街ができるまではこちらが元々のカゼルタだったのです。

住宅街のはずれに城の跡が残っています。中世の城は、王の居所であると同時に、村や町の防護のための要塞でした。カゼルタべヴェッキアの城も例外ではなく、崩れかけた壁が厳しかった時代を語っています。

かつては四本あったという円塔が一本だけ残っています。ひたすらレンガ状の石を組み上げ、平野側には窓が一つ、あとは細いスリットがいくつかあるだけの、実にそっけない塔です。眼下の晴れやかでおだやかな平野と海も、塔の窓から敵をうかがって見下ろせば、また違った景色に見えたに違いありません。

教会に交じりあう様々な時代と様式

教会に交じりあう様々な時代と様式
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カゼルタべヴェッキアのもう一つの見どころがドゥオーモです。ドゥオーモ(カテドラーレ)は大聖堂と訳されますが、司教座が置かれた教会の呼称です。その教区に司教が派遣される唯一の、大変重要な教会ということになります。つまりドゥオーモがあるということは、この地が最初はイスラム勢から逃れてできた集落にすぎなかったのが、その後司教座まで移設し、町として栄えたことを意味しているのです。

教会の創建はランゴバルド人ですが、北欧系のノルマン人が南イタリアに王国を築いた12世紀初頭から、三代の司教によって増改築されました。本来の名前はサン・ミケーレ・アルカンジェロ、戦いを司る大天使ミケーレ(ミカエル)に捧げられています。ファサードは平面的でとてもシンプルながら、一部に大理石の彫刻が施されたプーリア(南イタリアのアドリア海に面した州)・ロマネスク様式です。

内部には白い円柱がリズミカルに並び、高窓から射す光がアクセントを添えています。柱頭に様々な装飾を施された柱は、古代ローマ遺跡からの再利用。そう言えば、柱の上の黒っぽい石とは明らかな断絶があります。一方、説教壇の側面は華やかなビザンチン(東ローマ帝国)風のモザイク装飾。言葉にするとバラバラに聞こえますが、木製の天井と併せて全体を眺めてみると、小さな差異は消え、むしろ落ち着いた調和と一体感が感じられます。

教会に交じりあう様々な時代と様式
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教会の多文化性はこれらに留まりません。外に出て、付属する八角形の塔を見上げてみましょう。塔の外壁やアーチの装飾は、象嵌によるアラベスク模様です。シチリアと南イタリアを統一したノルマン王国の建築にはイスラム文化の影響が強く、アラブ・ノルマン様式といいますが、ここまでさりげなくロマネスクと交じりあっているのは驚きです。

ブルボン王朝の新しい「街」

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カゼルタの王宮まで、一気に600年を下ります。南イタリアの王国はフランスのアンジューとスペインのアラゴンを経て、ブルボン朝になっています。ベルサイユと並び称される宮殿には1200の部屋と24の行政庁舎だけではなく、礼拝堂、美術館、大学、図書館、劇場、4つの中庭等、数々の施設が設けられました。これはもう立派な「街」です。

けれども、商業施設が無いことだけでなく、ここを「街」と呼ぶには少しためらいがあります。が、それはそれとして、まずは壮大な大理石の階段や、各部屋のきらびやかなロココの装飾に圧倒され、富の集積が後年に残した美を享受することにしましょう。それから、庭園に出ます。当時も庭は、復活祭明けの祝日の一日だけとはいえ、庶民に解放されたといいます。

ブルボン王朝の新しい「街」
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庭の最奥までの3キロは、バスで行きましょう。人工の大滝も、泉水を飾る迫力ある彫刻も見事ですが、ほっとひと息つけるのが、風景式のイギリス庭園です。世界中から集められた植物が南イタリアの気候になじみ、濃い陰をつくっています。見ると、リュウゼツランとサボテンの間に、ポンペイから運び込まれた大理石の柱やレリーフが覗いています。中世の教会に生き延びた古代ローマに再び出会って、ようやくここを「街」と呼んでもいいと、思えるのではないでしょうか。

※イギリス庭園は季節により閉館時間が異なります。特に11月から2月まではカゼルタベッキアは後回しにするなど、スケジュールを調整してください。

イタリアで愛される中世の街

多くの人が世界遺産であるカゼルタを訪れます。片やカゼルタヴェッキアは、忘れられた街のように見えます。では、今ではたった200人ほどしか住んでいない街に、レストランが何軒もあるのは何故でしょう。イタリアでは古い街並みや建物がとても大事にされていて、とくに中世の街はボルゴ・メディェバーレ(Borgo Medievale=中世の集落) と呼ばれ、地味な教会と崩れ落ちた城と石畳と石壁の集落だけであっても、いえ、それだけだからこそ、深く愛されているのです。村全体が国の文化遺産に指定されていますが、遺産を見学するためではなく、美味しい食事と景観と散策を楽しむために、繰り返し出かけていく場所として...。ずっと生き続けていく街の姿が、ここにあります。

参考:『イタリア・ロマネスクへの旅』(中公新書)

掲載内容は執筆時点のものです。 2015/10/10 訪問

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