写真:Naoyuki 金井
地図を見る「神田明神」は、730年に大己貴命(大国様)を祀って、現在の千代田区大手町に創建されました。
14世紀初頭、平将門の祟りと云われた疫病が流行しました。そこで将門を葬った墳墓「将門の首塚」の近くにあった神田明神が、将門の霊を供養し疫病が沈静化したことから、1309年に平将門を祀りました。
写真:Naoyuki 金井
地図を見る江戸時代では崇敬篤かった将門神でしたが、明治7年に明治天皇が行幸する際、天皇が参拝する神社に逆臣の将門が祀られているのはあるまじきこととして祭神から外されました。その代わりに少彦名命(恵比寿神)が祀られ、将門神は境内摂社への左遷となったのです。
写真:Naoyuki 金井
地図を見る昭和になると将門を祭神に復帰させる嘆願が起き、NHK大河ドラマ「風と雲と虹と」が放映される頃には機運が高まり、昭和59年にめでたく本社復帰が叶いました。まさに摂社(支社)から本社への栄転と云う経緯から、現在では出世のご利益があるとビジネスマンの参拝が多いのです。
次は、この将門が怨霊となるきっかけを探ります。
写真:Naoyuki 金井
地図を見る時代は平安時代まで遡ります。平安時代後期、当時の地方行政はそれぞれの国司に任されていました。その為、国司は横領など悪事のやり放題であったことから治安も悪化し、その対処として現れたのが桓武平氏や清和源氏などの武士です。
写真:Naoyuki 金井
地図を見る将門の祖父は、上総国の国司として赴任したのですが、任期後も居座り武士団を形成して勢力を拡大していきます。しかし、将門の父の死をきっかけに相続争いが勃発、将門は叔父を殺害し、従弟の平貞盛の引渡しを断った常陸国府をも攻撃しました。勢いに乗じた将門は、他の国府にも次々と攻撃をはじめたのです。
写真:Naoyuki 金井
地図を見る合戦では、反りを持った最初の日本刀を作らせたとも云われる将門の武器力と、豊富な馬を利用した騎馬隊を駆使した機動力で、瞬く間に関東八ヶ国の国府を攻撃し、各国司を追放してしまいます。
これが平将門の乱で、私事で始まった戦いが、国家反逆の戦いになり、その揚句、自ら“新皇”と称して、真っ向朝廷と対立姿勢を取ったのです。
次では、逆賊となった将門の運命を探ります。
<基本情報>
住所:東京都千代田区外神田2丁目16-2
電話番号:03-3254-0753
アクセス:JR総武・中央線 東京メトロ丸の内線「御茶ノ水駅」聖橋口より徒歩5分
写真:Naoyuki 金井
地図を見る京都の天皇に対して自ら新皇と称したのですから、当然、朝廷が黙って見過ごすはずもありません。朝廷は、早速、諸社諸寺に怨敵(将門)退治の祈祷を命じ、藤原忠文を征東大将軍に任命して将門の乱の鎮圧に向かわせました。その結果、この討伐軍が到着する前に将門は、地元の武士である藤原秀郷等に討たれました。
※令和に始まった将門塚の第6次整備工事が終了し、令和3年4月26日に式典が執り行われました。将門塚の画像は新しくアップグレードされた現在のものです。
写真:Naoyuki 金井
地図を見る戦いに敗れた将門の身体は、現在の茨城県坂東市の延命院に埋葬されましたが、首級は平安京に運ばれ都大路の河原にさらされました。しかし、無念やるかたない首級は腐りもせず目を見開き、「胴体と首をつないでもう一戦しよう!」 と、夜な夜な叫んだと云われています。
※将門塚は令和の時代に合うよう非常にスタイリッシュになりました。
写真:Naoyuki 金井
地図を見るそして3日目に首級は、切断された胴体を求めて夜空に舞いあがり、故郷の東国に向かって飛んでいき、数ヶ所に落ちたとされています。その首級の落ちた最も著名な伝承地が、千代田区大手町にある「将門の首塚」です。こうして終わった将門の乱でしたが、将門の魂は、無念の気持のまま葬られたのでした。
次は、現代にまで息づく将門の怨念を探ります。
※首塚の位置はそのままで将門公の眠りを妨げないようにしたのかもしれません。
写真:Naoyuki 金井
地図を見る一件落着となった将門の乱でしたが、将門のすさまじい怨念は後世まで続きます。
最初の不可思議な現象は、関東大震災で全焼した大蔵省庁舎の再建の時です。首塚を壊して仮庁舎を建設した僅か2年の間に、大蔵大臣を始め関係者14名が亡くなり、それ以外にも多くの怪我人・病人が続出したことから仮庁舎は取り壊されました。
※従来は築地塀で囲われていましたが、現在はオシャレなウッドフェンスになっています。
写真:Naoyuki 金井
地図を見る次は戦後になり米軍が首塚を取り壊し始めたところ、重機が横転し運転手が亡くなったことから工事を中止しています。
更に昭和の高度成長時代、首塚の一部が売却され、その地に建った日本長期信用銀行の首塚に面した行員が次々に病気になる事態が発生し、お祓いしたという話もあります。
※ウッドフェンスには将門公の九曜紋が入れられています。
写真:Naoyuki 金井
地図を見るこれ以外にも将門の祟りは枚挙に暇がなく、現在でも隣接するビルは首塚に尻を向けないようにフロアレイアウトされていたり、首塚を見下ろすようなことのないように窓は設けないなどの配慮がされていると云ったことが実しやかに囁かれており、1000年以上経過した現代でも、その怨念を気にしています。
※現在、周りのビルには窓はありますが、首塚の正面にはビルが無くなって見晴らしがよくなったので将門公も良い景色をご覧になり怨念も和らいでいることでしょうね。
<基本情報>
住所:東京都千代田区大手町1-2-1
アクセス:東京メトロ東西線・丸の内線・千代田線・半蔵門線、都営三田線「大手町駅」C5出口すぐ
写真:Naoyuki 金井
地図を見るこうした将門の怨念を、神田明神の祭神となる遥か前から祭神としていたのが「筑土神社」です。首級の飛来は怨念の強調で、実際は将門所縁の者が首桶に首級を納め、現在の千代田区大手町周辺の観音堂に祀ったのが始まりと云われています。この観音堂が“津久戸明神”と称され、現在は、実にモダンな神社になっています。
この「筑土神社」には、戦前まで将門の首級を納めた首桶、将門の肖像画、木造の束帯坐像等が社宝として伝わっていたのですが、戦災で焼失し、現在はその写真が残っているのです。
写真:Naoyuki 金井
地図を見る現在は6回の移転により、首塚からは離れてしまいましたが、拝殿の装飾や絵馬には将門の九曜紋が使用され、騎馬隊創設の将門に因んだ繋ぎ馬の紋も使用されており、なんと商標登録までされているのです。
写真:Naoyuki 金井
地図を見る更に、この筑土神社が日本武道館の氏神でもあることは意外と知られておらず、武道を志す方たちから崇敬されています。そして独自の“勝守”があり、あらゆる勝負事に対する絶大なるご利益を授与しているのです。
祟りとご利益という相反するパワーながら、今だ現代人への影響を与える将門は不滅なのです。
<基本情報>
住所:東京都千代田区九段北1-14-21
電話番号:03-3261-3365
アクセス:東京メトロ東西線・半蔵門線、都営新宿線「九段下駅」1番出口より徒歩1分
全国的に著名な神田明神にご参拝の際には、将門ゆかりの「首塚」「筑土神社」にも参拝して、将門の霊を慰めるとともに、たくさんのご利益を授与されてください。
ただし、ここで老婆心ながら一言ご注意を申しあげます。
将門の乱鎮圧の際に朝廷から怨敵退治の祈祷を命じた諸社諸寺の中に、こちらも全国的に著名な成田山新勝寺がありました。成田山は、特にこの祈祷を開山起源としていることから、将門とその家来の子孫、そして神田明神や筑土神社の氏子などは、成田山に参拝すると将門の加護が受けられないという伝承から参詣しない人が多いのです。
また、例年NHK大河ドラマの出演者は、成田山の節分豆まきに参加するのですが、将門が主人公のNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』の出演者は豆まきの参加を辞退したのです。
将門所縁の地の参拝の際には、くれぐれも成田山の参拝はなさらない方が良いかもしれません。
信じるか信じないかは、あなた次第ですが・・・。
2021年6月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
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(2024/4/23更新)
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