日本三大怨霊!平将門の祟りが怖すぎる千代田区「将門の首塚」

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日本三大怨霊!平将門の祟りが怖すぎる千代田区「将門の首塚」

日本三大怨霊!平将門の祟りが怖すぎる千代田区「将門の首塚」

更新日:2015/05/16 16:49

Naoyuki 金井のプロフィール写真 Naoyuki 金井 武蔵国ナビゲーター、歴史探索ブロガー

崇徳天皇、菅原道真、平将門という非業の死を遂げた歴史上の3人を日本三大怨霊と呼んでいます。
その中の平将門は、古代の朝敵から中世の崇敬対象、そして明治時代の逆賊視から戦後の英雄化と、時代と共に評価が変わる興味深い人物です。
更に興味深いのは、現代でも将門の祟りが恐ろしいと噂されていることなのです。
今回は、この将門の祟りを知り、そのパワーによるご利益を頂きに、所縁の地を参拝してみましょう。

将門が供養された神社

写真:Naoyuki 金井

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『神田明神』は、730年に大己貴命(大国様)を祀って、現在の千代田区大手町に創建されました。

14世紀初頭、平将門の祟りと云われた疫病が流行し、将門を葬った墳墓『将門の首塚』の付近にあった神田明神が、将門の霊を供養し疫病が沈静化したことから、1309年に平将門を祭神として祀ったのです。

江戸時代では崇敬篤かった将門神でしたが、明治7年に明治天皇が行幸する際には、天皇が参拝する神社に逆臣の将門が祀られているのはあるまじきこととして祭神から外され、代わりに少彦名命(恵比寿)が祀られ、将門神は境内摂社に左遷させられました。

しかし昭和になると将門を祭神に復帰させる嘆願が起き、NHK大河ドラマ『風と雲と虹と』が放映される頃には機運が高まり、昭和59年にめでたく本社復帰が叶いました。
まさに摂社(支社)から本社への栄転と云うことから、現在では出世のご利益があるとビジネスマンの参拝が多いのです。

次は、この将門が怨霊となるきっかけを探ります。

怨霊となるきっかけの反逆

写真:Naoyuki 金井

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時代は平安時代まで遡ります。

平安時代後期、当時の地方行政はそれぞれの国司に任されていたため、国司は横領など悪事のやり放題であったことから治安も悪化し、その対処として桓武平氏や清和源氏などの武士が現れたのです。

将門の祖父は、上総国の国司として赴任したのですが、任期後も居座り武士団を形成して勢力を拡大していきます。しかし、将門の父の死をきっかけに相続争いが勃発し、将門は叔父を殺害し、従弟の平貞盛の引渡しを断った常陸国府をも攻撃し、勢いに乗じた将門は、他の国府にも攻撃をはじめたのです。
合戦では、反りを持った最初の日本刀を作らせたとも云われる将門の武器力と、豊富な馬を利用した騎馬隊を駆使した機動力で、瞬く間に関東八ヶ国の国府を攻撃し、各国司を追放してしまいます。
これが平将門の乱で、私事で始まった戦いが、国家反逆の戦いになり、その揚句、自ら“新皇”と称して、真っ向朝廷と対立姿勢を取ったのです。

次では、逆賊となった将門の運命を探ります。

将門が葬られた怨念の地

写真:Naoyuki 金井

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京都の天皇に対して自ら新皇と称したのですから、当然、朝廷が黙って見過ごすはずもありません。

朝廷は、早速、諸社諸寺に怨敵(将門)退治の祈祷を命じ、藤原忠文を征東大将軍に任命して将門の乱の鎮圧に向かわせました。
結果は、この討伐軍が到着する前に、地元の武士である藤原秀郷等に討たれてしまったのです。

戦いに敗れた将門の身体は、現在の茨城県坂東市の延命院に埋葬されましたが、首級は平安京に運ばれ都大路の河原にさらされました。
しかし、無念やるかたない首級は腐りもせず目を見開き、「胴体と首をつないでもう一戦しよう!」 と、夜な夜な叫んだと云われています。
そして3日目には、切断された胴体を求めて夜空に舞いあがり、故郷の東国に向かって飛んでいき、数ヶ所に落ちたとされています。
その首級の落ちた最も著名な伝承地が、千代田区大手町にある『将門の首塚』なのです。
こうして終わった将門の乱でしたが、将門の魂、そして無念の気持のまま葬られたのでした。

次は、現代にまで息づく将門の怨念を探ります。

よみがえる将門の怨念

写真:Naoyuki 金井

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こうして将門の乱も一件落着となったのですが、将門のすさまじい怨念は、後世まで続きます。

最初の不可思議な現象は、関東大震災で全焼した大蔵省庁舎の再建のため、首塚を壊して仮庁舎を建設した僅か2年の間に、大蔵大臣を始め関係者14名が亡くなり、それ以外にも多くの怪我人・病人が続出したことから仮庁舎を取り壊したことが始まりです。
戦後になり米軍が首塚を取り壊し始めたところ、重機運転手が横転し亡くなったことから工事を中止しています。
更に昭和の高度成長時代、首塚の一部が売却され、その地に建った日本長期信用銀行の首塚に面した行員が次々に病気になる事態が発生し、お祓いしたという話もあります。

これ以外にも将門の祟りは枚挙に暇がなく、現在でも隣接するビルは首塚に尻を向けないようにレイアウトしたり、首塚を見下ろすようなことのないように窓は設けていないなどの配慮がなされてたりすると、実しやかに囁かれており、1000年以上経過した現代でも、その怨念を気にしているのです。

最後は、この怨念パワーのご利益を探ります。

将門の怨念のご利益

写真:Naoyuki 金井

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こうした将門の怨念を、神田明神の祭神となる遥か前から祭神としていたのが『筑土神社』です。

首級の飛来は怨念の強調で、実際は将門所縁の者が首桶に首級を納め、現在の千代田区大手町周辺の観音堂に祀ったのが始まりで、この観音堂は“津久戸明神”と称されました。
この“津久戸明神”が後の千代田区九段にある『筑土神社』で、戦前まで将門の首級を納めた首桶、将門の肖像画、木造の束帯坐像等が社宝として伝わっていたのですが、戦災で焼失し、現在はその写真が残っているだけです。
6度の移転により、首塚からは離れてしまいましたが、拝殿の装飾や絵馬には将門の巴紋が使用され、騎馬隊創設の将門に因んだ繋ぎ馬の紋も使用されており、なんと商標登録までされているのです。

日本武道館の氏神でもあることは意外と知られておらず、武道を志す方たちから崇敬されています。
そして独自の“勝守”があり、あらゆる勝負事に対する絶大なるご利益を授与しているのです。

祟りとご利益という相反するパワーながら、今だ現代人への影響を与える将門は不滅なのです。

老婆心ながらご注意を一言。。。

全国的に著名な神田明神にご参拝の際には、将門ゆかりの『首塚』『筑土神社』にも参拝して、将門の霊を慰めるとともに、たくさんのご利益を授与されてください。

ただし、ここで老婆心ながら一言ご注意を申しあげます。
将門の乱鎮圧の際に朝廷から怨敵退治の祈祷を命じた諸社諸寺の中に、こちらも全国的に著名な成田山新勝寺がありました。
成田山は、特にこの祈祷を開山起源としていることから、将門とその家来の子孫、そして神田明神や筑土神社の氏子などは、成田山に参拝すると将門の加護が受けられないという伝承から参詣しない人が多いのです。
また、例年NHK大河ドラマの出演者は、成田山の節分豆まきに参加するのですが、将門が主人公のNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』の出演者は豆まきの参加を辞退したのです。

将門所縁の地の参拝の際には、くれぐれも成田山の参拝はなさらない方が良いかもしれません。
信じるか信じないかは、あなた次第ですが・・・。

掲載内容は執筆時点のものです。 2015/04/18 訪問

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