日本と中国の絆を知る、上海・内山書店旧址の散策

日本と中国の絆を知る、上海・内山書店旧址の散策

更新日:2018/08/03 17:46

太平洋戦争が終結した1945年まで、10万人もの日本人が上海に暮らしていました。
とりわけ、虹口(ホンコウ)と呼ばれる地域は日本人の一大居住区となっていました。
このような居住区が生まれた背景には、長崎と上海を結ぶ船に乗る日本人はパスポートが不要だったことにも因るようです。
その虹口で、戦前から戦後にかけて日本と中国の友好に尽くしたひとりの日本人がいました。
その人物の足跡が残る地域を歩きます。

いまは銀行となった、戦前の日中文化人サロン

いまは銀行となった、戦前の日中文化人サロン
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地下鉄3号線「虹口足球場」駅から四川北路という大通りを歩いて南下すること約20分。
中国工商銀行が見えてきます。
何の変哲もない銀行のように見えますが、ここにはかつて日本人・内山完造(1885〜1959年)とその妻・美喜が開いた「内山書店」がありました。

28歳でキリスト教に入信した完造は、教会の牧師の紹介で「大学目薬」の海外出張員となり、上海にやってきました。
その3年後に教会で知り合った美喜と結婚。
翌年(1917年)、完造と美喜は自宅の玄関先に小さな書店を開きます。
これが上海内山書店の第一歩となります。

やがてこの書店は上海在住の日本の文化人だけでなく、中国の知識人も訪れるようになり、日中文化人サロンとして両国の交流の場となっていきます。
書店もどんどん大きくなり、1929年に現在の中国工商銀行がある場所に移転します。

魯迅、郭沫若など「中国の巨人」の恩人・内山完造

魯迅、郭沫若など「中国の巨人」の恩人・内山完造
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ここがかつての内山書店だったということを示すプレート。
銀行の入口付近にあるので、すぐに見つかるはずです。
日本語表記もあるのが、中国語がわからない人にはありがたいところ。
左が内山完造、そして右が20世紀中国を代表する小説家、翻訳家、思想家・魯迅(1881〜1936年)です。

完造は単なる書店の主人ではありませんでした。
1927年には魯迅と親交を結び、のちに多くの日本の知識人に引き合わせます。
そのなかには金子光晴、横光利一、林芙美子、武者小路実篤など、いずれも日本の文学史に名を残した面々も含まれています。

また、1930年代から悪化した日中関係のなか、両国からスパイ嫌疑がかけられるようになった魯迅をかくまい、隠れ家を紹介したのも完造夫妻でした。
のちに政治家、文学者、詩人、歴史家として幅広く活躍する郭沫若(1892〜1978年)が中国国民党に追われているところを助け、日本への亡命にも手を貸しています。

魯迅と郭沫若は、「中国の巨人」として現在も高く評価される人物ですが、内山完造はその両者の恩人でもあったのです。
そしてその貢献が現在の中国においても、日本人でありながら内山完造という人物が高い評価を得ている一因となっています。

銀行の2階で戦前の上海にタイムスリップ

銀行の2階で戦前の上海にタイムスリップ
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プレートの解説を読んで「ここが内山書店だったんだなあ・・・」と満足して引き返しましょうか。
いやいや、ちょっと待ってください!
実はこの銀行の中に、戦前の内山書店の世界に浸れる空間があるんです。

1階は日本でも見られるようなふつうの銀行ですが、ここの2階は違うんです。
そこは内山完造と魯迅の親交を中心とした資料展示室になっています。
警備員か銀行係員に「ネイシャン・シューディエンジウジー(内山書店旧址)」と言えば、「ああ」という表情で「2階に行きなさい」と答えてくれるはずです。

2階の資料室では、当時の写真パネルやさまざまな資料で、日中文化人サロンだった内山書店の様子をうかがい知ることができます。
魯迅が浴衣姿になって和室でくつろぐ写真もあり、こうした資料をみていると当時の上海にタイムスリップしたような気分になります。

内山夫妻の仲むつまじい写真パネルの前にあるデスクには芳名帳があり、中国のみならず日本からの訪問客も自由に意見を記帳しています。
戦前にここで花開いた日中民間の交流は、現代にも息づいているんですね。

ちなみにここ資料室の開館日時ですが、銀行内と言うこともあり、その営業時間(9時30分〜15時30分)に準じています。
土曜と日曜、そして中国の祝日はお休みです。

レトロストリート・多倫路文化名人街で唯一の日本人像

レトロストリート・多倫路文化名人街で唯一の日本人像
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内山書店旧址である中国工商銀行から300メートル未満。
そこには多倫路(ドゥオルンルー)という1キロメートルほどの短い通りがあります。
この周囲には老房子(ラオファンヅ=古い洋館)が建ち並び、レトロ感覚あふれるストリートとなっています。

ここは日本のガイドブックでは多倫路文化名人街と紹介されています。
その名の通り、魯迅など中国現代史を彩る文化人の像が、ストリート沿いに建てられています。
そのなかにたったひとり、日本人の像があるんです。

多倫路には世界でも珍しいとされる中国風のキリスト教会・鴻徳堂があります。
1928年建立ですから、ちょうど内山書店が日中文化人サロンとして賑わっていた時代と重なります。
その教会の脇には「鴻徳書房」という洋館があり、その前に立っているのが内山完造の像なのです。

和服姿で、いかにも温厚そうな完造。
ここを訪れた中国の人たちが完造の像の前で立ち止まって写真を撮っていく光景も多く見られます。

魯迅故居がある山陰路で当時の面影を探す

魯迅故居がある山陰路で当時の面影を探す
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内山完造が親交を結んだ魯迅。
彼は若い頃、東京や仙台など日本に留学し、そこで文学に目覚めました。
夏目漱石など日本の小説に夢中になったそうです。
帰国後は、『狂人日記』『阿Q正伝』などの名作を世に送り出します。

こうした活動のため、当時の中国政府からは思想犯としてにらまれた魯迅。
広東から脱出して上海に逃れた際に、内山書店の存在を知り、完造と出会ったのです。
魯迅は、上海での隠れ家を探す必要に迫られていました。
そのとき、完造と美喜が紹介して魯迅が移り住んだのが、現在の「魯迅故居」です。

山陰路という静かな住宅街にあるアパートの1室がそれにあたります。
魯迅は1936年、ここで息を引き取りました。
魯迅故居には彼が書斎として使用していた机があり、亡くなった時に使用していたベッドが残され、さらに日めくりカレンダーが魯迅が亡くなった日で止まっています。
写真撮影は禁止されているので、その画像はこちらに上げることはできません。
でも、魯迅の息づかいがいまにも聞こえてきそうな、そんな空間です。

また、山陰路はいまでも当時の面影を残す建物が並び、なんだか内山完造や魯迅がひょっこり現れそうな錯覚にとらわれます。
あちこちで再開発が進む上海で、戦前の日本人居住区の雰囲気を濃厚に残す、数少ない地域と言えるでしょう。

こんな時代だからこそ行っておきたい内山書店旧址

1930年代に入り、日本と中国の関係はどんどん険悪となっていき、1937年には日中戦争が始まります。
完造も帰国を余儀なくされ、日本の敗戦(1945年)後、内山書店は閉鎖となりました。

その後、完造は中国に残された日本人3万人の引き揚げに尽力。
そして日中友好にも精力的な活動を行い、1959年に招待された北京で亡くなりました。
74年の波乱に富んだ生涯でした。

いま、日本と中国の関係はお世辞にも決していいとは言えません。
それでも中国の人たちの日本に向けるまなざしは決して冷たいものばかりではなく、逆に訪問したい国のトップに挙げられています。
内山完造が生きた時代の日中関係は、もっと冷え込んだものでした。
そのなかでも、完造は多くの中国人に慕われ、日中の民間交流に大きな花を咲かせました。

内山書店があった周囲には、先述の多倫路文化名人街や魯迅故居など、観光スポットがすぐそばにあります。
そして上海名物・焼き小籠包の名店「飛龍生煎(フェイロンシェンジョン)」も、中国工商銀行の目の前に。
観光もグルメも気軽に楽しめるエリアです。
日中がちょっとギクシャクしているいまだからこそ、ここを訪れてみてはいかがでしょうか?

掲載内容は執筆時点のものです。

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