つわものどもが夢の跡!大坂夏の陣「若江の戦い」をめぐる旅

つわものどもが夢の跡!大坂夏の陣「若江の戦い」をめぐる旅

更新日:2023/11/19 13:15

乾口 達司のプロフィール写真 乾口 達司 著述業/日本近代文学会・昭和文学会・日本文学協会会員
豊臣家の滅亡を招いた大坂夏の陣から400年あまり。大坂の陣といえば、真田幸村ら豊臣方の諸将の討ち死にを招いた天王寺・岡山の戦いや、大坂城の落城をめぐるエピソードがよく取りあげられますが、河内平野を舞台に繰り広げられた合戦はほかにもあり、とりわけ、「若江の戦い」は勇猛果敢な武者たちの奮闘の痕跡が各所に残ります。今回は一般にはあまり知られていない大坂夏の陣「若江の戦い」ゆかりの地をめぐってみましょう。

両軍激突の地・若江

両軍激突の地・若江

写真:乾口 達司

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「若江の戦い(わかえのたたかい)」は大坂夏の陣における戦いの一つ。かつての若江村とその周辺一帯で繰り広げられ、若江村の南方に位置する「八尾(やお)」でおこなわれた合戦とあわせて「八尾・若江の戦い」と呼ばれています。

写真は「若江の戦い」の舞台近くに位置する近鉄奈良線「若江岩田駅」。「若江岩田」の名称はかつての若江村と岩田村とをあわせたことに由来します。「若江の戦い」をめぐる散策の起点としましょう。

<若江岩田駅の基本情報>
住所:大阪府東大阪市岩田町4丁目4-21

両軍激突の地・若江

写真:乾口 達司

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道標に「大阪道」「十三越道」と刻まれているように、若江は古くからの街道の要衝でした。徳川勢は若江村を通過して大坂城へと進もうとし、逆に豊臣方は徳川軍の進撃を食い止めるべく、若江村で迎撃態勢を整えたのです。

<十三街道道標の基本情報>
住所:大阪府東大阪市若江南町4-1-35
アクセス:近鉄奈良線「若江岩田駅」より徒歩約20分

両軍激突の地・若江

写真:乾口 達司

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1615年5月、道明寺など河内南部で両軍の戦端が開かれます。「八尾・若江の戦い」はこのような情勢下ではじまりました。

徳川勢を迎え撃つため、5月6日、豊臣方の木村重成の軍勢が若江に着陣。玉串川沿いの若江堤で藤堂高虎や井伊直孝の徳川勢と激突しました。母親が豊臣秀頼の乳母であったことから、重成は幼少時より秀頼の小姓として仕え、夏の陣にさきがけておこなわれた冬の陣では今福砦の戦いでも活躍。豊臣方の若き武将でした。

道が二股に分かれている写真の左手が、かつての若江堤の痕跡。よくみると、左手の方がわずかに高くなっているのが、おわかりいただけるでしょう。

<旧若江堤の基本情報>
住所:大阪府東大阪市岩田町3丁目
アクセス:近鉄奈良線「若江岩田駅」より徒歩約5分

木村重成の墓所

木村重成の墓所

写真:乾口 達司

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木村勢は藤堂勢を敗走させることに成功します。しかし、井伊勢の参戦により、形勢は逆転。重成は討ち死にし、重成の本隊は壊滅しました。これにより、徳川勢はさらに西へと進軍。翌日の天王寺・岡山の戦いを経て、大坂城は落城します。

写真は当地に残る重成の墓所です。

木村重成の墓所

写真:乾口 達司

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重成の墓はかつて現在の地から東に約50メートルほどのところに位置していましたが、河川工事にともない、現在の幸第1公園に移ってきました。

写真は公園の入り口の立つ石碑。実に堂々たる石碑が2本立っており、重成の墓所のありかを強く示しています。

<木村重成の墓所の基本情報>
住所:大阪府八尾市幸町6-2
アクセス:近鉄奈良線「若江岩田駅」より徒歩約25分

蓮城寺の重成位牌堂

蓮城寺の重成位牌堂

写真:乾口 達司

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合戦当時、重成の本陣が置かれていた地には、現在、蓮城寺が建っており、境内には重成の肖像画を安置した位牌堂も存在します。

蓮城寺の重成位牌堂

写真:乾口 達司

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堂内にまつられた重成の肖像画には、日中、誰でも気軽にお参りできるため、足を運びましょう。

蓮城寺の重成位牌堂

写真:乾口 達司

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蓮城寺の北方、若江南町1丁目には「若江木村通」という名の交差点も存在します。重成がいまでも地元で篤く敬われていることがうかがえますね。

<蓮城寺・木村重成位牌堂の基本情報>
住所:大阪府東大阪市若江南町2-3-7
アクセス:近鉄奈良線「若江岩田駅」より徒歩約20分

「若江の戦い」で命を落とした武将たちの墓

「若江の戦い」で命を落とした武将たちの墓

写真:乾口 達司

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重成の墓所と対峙するかのように、第二寝屋川を挟んだ対岸には、山口重信の墓も残されています。重信は井伊勢に参加していた徳川方の武将。重信は旧領の回復を願って戦いましたが、若江の戦いで戦死。その後、重信の宿願はかなえられました。

重信のお墓は、1647年、重信の三十三回忌に際して建てられたもの。両軍の武将の墓が両岸に残されていることは、両軍が激しい戦いを繰り広げた若江の戦いを象徴する構図であるといえます。

<山口重信の墓所の基本情報>
住所:大阪府東大阪市若江東町6-6
アクセス:近鉄奈良線「若江岩田駅」より徒歩約25分

「若江の戦い」で命を落とした武将たちの墓

写真:乾口 達司

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こちらは飯島三郎右衛門の墓。飯島三郎右衛門は地元・高井田の出身。弓の名手として織田信長や豊臣秀吉に仕え、秀吉の死後は豊臣秀頼に仕えました。若江の戦いでは重成隊に属して戦いましたが、先に紹介した山口重信に槍で突かれて戦死しました。

現在も墓前に花が手向けられ、地元で大切に守られていることがわかります。

<飯島三郎右衛門の墓所の基本情報>
住所:大阪府東大阪市岩田町3-12-34
アクセス:近鉄奈良線「若江岩田駅」より徒歩約5分

南北朝時代以来の歴史を残す若江城跡

南北朝時代以来の歴史を残す若江城跡

写真:乾口 達司

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若江の戦いの舞台となった当地を訪れたら、南北朝以来の歴史を有する若江城跡も訪ねましょう。かつての若江城は現在の東大阪市立若江小学校の周辺一帯にあったと推定されています。

1382年(永徳2)、後に室町幕府の管領となる畠山基国によって築かれた若江城は、以後、河内国の要衝としてたびたび兵乱の舞台となりました。お城自体は1583年(
天正11)に破却されますが、大坂夏の陣に際して両軍が当地で激しい攻防を繰り広げた背景に、かつての若江城が背負っていた地政学的な重要性があったことも考えられます。

<若江城跡の基本情報>
住所:大阪府東大阪市若江北町3-3
アクセス:近鉄奈良線「若江岩田駅」より徒歩約15分

南北朝時代以来の歴史を残す若江城跡

写真:乾口 達司

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若江鏡神社は若江城の南端に位置する古社と推定され、本殿の周辺には、若江城のものと思われる土塁や掘割の遺構と推定される地割も見られます。

ちなみに、境内の西方には「寺垣内」や「クルス」といった字名が残されており、かつての若江寺やルイス・フロイスの『日本史』に記されている教会の所在地を示したものと考えられています。

<若江鏡神社の基本情報>
住所:大阪府東大阪市若江南町2-3-9
アクセス:近鉄奈良線「若江岩田駅」より徒歩約20分

大坂夏の陣「若江の戦い」の地をめぐろう!

一般には知られていない大坂夏の陣「若江の戦い」がどのようなものであったか、その一端をご理解いただけたのではないでしょうか。若江の地を訪れ、若江の戦いの歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

2023年11月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2023/10/21 訪問

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