比類なき最強城郭、多彩な魅力は搦手にあり〜大阪城〜

比類なき最強城郭、多彩な魅力は搦手にあり〜大阪城〜

更新日:2015/04/01 17:58

城攻防戦としては日本合戦史上最長といわれる10年に及ぶ籠城戦が繰り広げられた石山合戦。
守城側10万・攻城側20万の類例のない大規模な城攻防戦となった大坂の陣。

それだけでなく、戊辰戦争や第二次世界大戦も経てきました。大阪とともに歴史を歩んできた大阪城。守りの工夫、刻印石、その多彩な見どころを天守閣から京橋口に向かってご紹介しましょう。

太閤さんの大阪城を模した大阪のシンボル「天守閣」

太閤さんの大阪城を模した大阪のシンボル「天守閣」
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スタートは城の中枢部分・本丸です。本丸が圧巻なのは石垣ばかりではなく、防御施設も実に凄いものでした。石垣の上には三重櫓がなんと11基も構えられ、それらが多門櫓で結ばれていたというのです。横矢掛かりもしっかりと効かせてあり、攻守に優れた構造をしていました。

本丸の内部には、主に本丸御殿と天守閣。残念ながら本丸御殿は存在していませんが、天守閣が大阪のシンボルとして立派にそびえています。現在の天守閣は昭和6(1931)年に昭和天皇即位記念で再建されたもので、『大坂夏の陣屏風』に基づいた豊臣時代の大阪城の外観を模した復興天守といわれています。(『大坂夏の陣屏風』に描かれている天守閣は漆黒で再建の姿と異なっており、新たな天守閣を創造したという説もあります)

大阪城には3つの天守閣が建てられました。最初は天正11(1583)年の豊臣時代の大阪城のもので、元和元(1615)年の大坂夏の陣により焼失。次に1620年代に徳川秀忠によって再建された徳川時代の大阪城のもので、寛文5(1665)年に落雷によって再び焼失。それから長らく大阪城に天守閣は再建されず、3代目が現在の天守閣です。

つまり大阪城は江戸時代の大半、天守閣が無かった城でした。
明暦3 (1657) 年、明暦の大火によって江戸城天守閣が焼失しましたが、「天守閣再建より民の救済を優先すべき」「そもそも天守閣が戦で活かされた例がない」という理由から再建に至りませんでした。この江戸城の例があり、大阪城天守閣も再建が憚られてしまったようです。

大阪城の面白い点として「縄張は徳川大阪城なのに天守閣は豊臣大阪城」であることは比較的知られています。しかし、3代ある天守閣のうち、コンクリート造の現代の天守閣が最も歴史が長いのも大阪城の面白い点と言えるでしょう。

※天守閣に入館する際の営業時間、料金など詳細はMEMOのリンク「大阪城天守閣」よりご参照ください。

本丸北側を守る「山里曲輪」と「隠し曲輪」

本丸北側を守る「山里曲輪」と「隠し曲輪」
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本丸北側は一段低くなっており、山里曲輪が置かれています。北から本丸に至るには、内堀を越えても山里曲輪を通らねばならず、山里曲輪と本丸を結ぶ虎口(山里口)もU字にして2つの門をくぐらなければならない、非常に攻めにくい構造です。本丸からの横矢掛りも効いており、屈曲部には三重の北の手櫓(現存せず)も睨みを利かせていました。

そして、山里口の桝形虎口は脇に隠された帯曲輪の隠し曲輪とも結ばれています。写真はこの場所になります。ここに兵を隠して、山里口の2つ目の門で本丸に通じる櫓門の姫門(現存せず)を攻めあぐねる攻城側に挟撃を加える狙いがあります。

2つの曲輪は、石垣の刻印が見られるスポットでもあります。石垣の刻印の多くは大名の家紋であり、この刻印からどの大名が運んだ城石かが分かるのです。山里曲輪には「刻印石広場」があり、第二次世界大戦で損傷を受けた刻印石を複数並べています。隠し曲輪では、丹波園部藩と伊予大洲藩の刻印が見られます。石垣に使用されている刻印石を見るにはここがベストです。

さらに、山里曲輪は豊臣秀頼と淀殿の自刃の場所ともされているのです。本丸で籠城していた淀殿は、すぐそばに砲撃を受けて女中が亡くなるのを見て勝機が無いことを悟り、秀頼を擁して山里曲輪に移動したのち、自刃したそうです。明確な自刃の場所は不明です。静かに大坂の陣終結を偲びましょう。

本丸への裏手口は長大な木橋「極楽橋」

本丸への裏手口は長大な木橋「極楽橋」
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山里曲輪と二の丸を結ぶのは極楽橋という橋です。名前の由来は本願寺時代まで遡ります。
かつて本丸には石山本願寺があったことから、本願寺を極楽浄土に見立て、そこに至るこの橋を極楽橋と名付けたそうで、その名前は引き継がれてきました。

かつては木造橋でしたが、戊辰戦争時の大火によって焼失。現在、鉄筋コンクリート造で再建されています。極楽橋から北内堀に沿って京橋口に向かって歩くあたりは、内堀と壮大な石垣越しに天守閣が望める良い撮影スポットです。なお、この写真は極楽橋の橋詰からです。

大阪城第2位の城石は京橋口に存在「肥後石」

大阪城第2位の城石は京橋口に存在「肥後石」
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門外を通る京街道に架けられた「京橋」に由来する京橋口も、例に漏れず高麗門・櫓門・多門櫓を配した壮大な桝形虎口でした。戊辰戦争時の大火を免れ大阪城の名物の一つとなっていましたが、第二次世界大戦時の空襲により焼失してしまいました。

人気の少ない現在の京橋口は、残った石垣が桝形虎口の勇壮さを偲ばせています。石垣に注目して見ると、こちらにも巨大な城石があります。名前は「肥後石」。城内第2位の大きさを誇ります。元々はこの石が大阪城最大の城石と思われていました。そして、そんな城石を運んできたのは肥後の加藤清正に違いない…と。そんな勘違いから「肥後石」と名付けられました。

実際は、備前岡山藩主池田忠雄が小豆島から切り出したものです。表面積は約33畳(54平方メートル)、推定重量は桜門にある第1位「蛸石」超えの約120トンになります。

まだまだ大阪城には見どころあり

これまで天守閣から京橋口に至るエリアに限定して見どころを紹介してきました。しかし、広範囲に目を移せば、まだまだ見どころは多岐にわたります。

例えば、明治期に陸軍用地に転用された面影を探せば、中世ヨーロッパの城館をイメージした陸軍第四師団司令本部や、レンガ造りの化学分析場などが見つかります。城内の石垣を注視すれば、他にも刻印石が見つかったり、爆撃や機銃掃射の痕跡が発見できることでしょう。

豊臣秀吉を祀る豊国神社も建立され、早春には二の丸の東に広がる梅園が賑わいを見せます。秘密の抜け穴はあるのか、戊辰戦争時に幕府軍が籠城していればどちらに勝利が転ぶか分からなかったと議論もされています。知るほどに深みを増す大阪城の魅力。実際に赴き、是非ともご堪能下さい。

※説明のない城郭用語については、MEMOのリンク「文化薫る丹波の町で徳川の堅城を攻略しよう〜篠山城〜」をご参照下さい。

※「西日本に幕府の権威を示す巨城の鉄壁な虎口〜大阪城〜」では、本丸に至る表口「大手門」「桜門」の2つの虎口を歴史的エピソードを交えながらご紹介しています。

掲載内容は執筆時点のものです。

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