西日本に幕府の権威を示す巨城の鉄壁な虎口〜大阪城〜

西日本に幕府の権威を示す巨城の鉄壁な虎口〜大阪城〜

更新日:2015/04/02 10:31

大阪の街は石山本願寺の寺内町に始まります。石山本願寺が大阪から退去すると、豊臣秀吉によって大阪城が築かれます。落城後には全てが埋め立てられ、その上に江戸幕府が西国に睨みを利かせる新たな大阪城が築城されました。

江戸幕府の権威を誇示した巨城・大阪城のハイライトは天守閣ですが、天守閣に至る表口に「大手門」「桜門」の2つの堅牢な虎口があります。こちらも必見、歴史的エピソードを交えながらご紹介します。

日本一美しい横矢掛かり「南外堀」

日本一美しい横矢掛かり「南外堀」
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大阪城は縄張の形式では、輪郭式縄張と呼ばれるものに分類されます。天守閣のある本丸を中心に二の丸が同心円状に配置されていますのが特徴です。このことから、大阪城は全方位からの攻撃を想定していたことが窺えます。

しかし、縄張がどれほど堅固であっても、虎口が貧弱であっては簡単に攻め込まれてしまいます。二の丸へ至る虎口は、大手門(大手口)、玉造口、青屋口、京橋口の4か所。これらが最初に狙われ、さらに城の西にあたる街の中心部にも街道の起点にも近い大手門に攻撃が集中されると思われます。

それ故に、大阪城めぐりは城の表口である大手口から始めるのが良いでしょう。大阪城の堅牢さがよく分かります。最初は「大手門」です、と言いたいところですが、その前にぜひ見て頂きたいものがあります。右手に足を運び、南外堀をご覧ください。

きれいな横矢掛かりになっています。幅72メートル、石垣の高さ30メートルという規模は日本最大で、この壮大さが横矢掛かりの美しさをより一層際立たせています。写真の櫓は六番櫓と呼ばれるもので、南外堀にはもう一つ、一番櫓が現存しています。

かつては、屈曲部分の要所に一番櫓から七番櫓まで計7基の櫓が配されていました。もしもこれが全て残っていたら、さぞかし圧巻の風景だったことでしょう。

石垣は巨石を加工して接合部分を減らし積み上げた打ち込み接(うちこみはぎ)と呼ばれる種類です。自然石を積み上げた石垣(野面積み、のづらづみ)とは違い、かなり登りにくくなっています。大阪城はさらに、下の積み石から上の積み石がほんの少しはみ出しているのです。これによって、手や足が掛けられないようになっています。

日本最大規模の桝形虎口「大手門」

日本最大規模の桝形虎口「大手門」
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南外堀を見たら、いよいよ大手門へ。
大手土橋の先、大手門一つ目の門は高麗門です。写真では工事中ですが、門柱の背後にも柱を立てて屋根を付けることで開閉時扉が雨に濡れないようになっている形式の門になります。これをくぐると、左に櫓門が現れます。この櫓が桝形の上に続き、多門櫓になっています。

この桝形虎口の規模は日本最大で、寛永5(1628)年に創建されましたが、天明3(1783)年に落雷で焼失。嘉永元(1848)年に再建され、現在もほぼその状態を維持しています。高麗門、櫓門どちらの門の柱にも鉄板が張られ、まさしく鉄壁防御の構えです。

また、桝形内には城内第4位・第5位の巨大な城石が攻城側を威圧しています。担当大名であった熊本藩主・加藤忠広によって瀬戸内海の島から切り出され、ここまで運ばれてきました。

大手口防衛の隅櫓「千貫櫓」

大手口防衛の隅櫓「千貫櫓」
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大手門で注目すべきは門や城石ばかりではありません。大手正面の左側にあり、大手土橋を侵攻する攻城側を横から攻撃できるように横矢が効いています。有事には、窓を開けて攻撃するわけです。

創建は元和6(1620)年で、江戸幕府による第1期再建工事時に築かれた、大阪城内現存最古の建築物です。名前の由来は織田信長が石山本願寺を攻めた時、横矢の効いた隅櫓がこの近辺にあり、攻略に難儀。「あの櫓を落とした者には千貫文の銭を与えても惜しくない」と話したことにあるそうです。

空堀と門の家紋が気になる「桜門」

空堀と門の家紋が気になる「桜門」
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大手門から二の丸に入り、次は本丸に入りましょう。本丸への虎口は本丸南端の桜門です。

桜門を目指して大手門から歩くと、南内堀が水のない空堀であることに気付きます。なぜここだけが空堀であるのかは不明です。しかし一説には、大阪城の水堀は川から引いておらず掘り当てた地下水を引っ張ったもので、南内堀だけは地下水を掘り当てることができなかったために、やむなく空堀となっているのではないかと考えられています。

また、本丸の石垣は豊臣時代の本丸を完全に埋めて、その上に現在の本丸を構築した際の石垣で、58大名が動員された大工事だったそうです。扇の勾配(下方の傾斜は緩く、上方に向かって角度が急になる勾配)が美しく、石垣隅の算木積み(さんぎづみ、直方体の積み石の長辺と短辺を角を揃えながら交互に積み上げた積み方)も見事です。

さて、土橋の先にある桜門も大手門同様に高麗門・櫓門・多門櫓を配した桝形虎口でしたが、現在見られる建築物は高麗門のみです。しかし、この高麗門も江戸期からの建物ではなく、明治20(1887)年の再建になります。

そして、復元なら瓦に付いているのは徳川家の家紋・三つ葉葵でなくてはならないはずが、豊臣家の五七桐になっているのです。これは豊臣家の城だと勘違いして造られた説と、徳川家が倒されたことを示すべく、あえて桐紋にした説があります。

日本最大の城石「蛸石」

日本最大の城石「蛸石」
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桜門の高麗門を抜けると、正面に現れるのが城内第1位であり、日本最大の城石「蛸石」です。担当大名は備前岡山藩主池田忠雄で、石材は岡山県産の花崗岩が用いられています。表面積は約36畳(60平方メートル)、推定重量は約108トンです。

「蛸石」という名前は、石の左下のシミが蛸の形に似ていることからつけられました。
また、木々に隠れていますが、向かって左手にも振袖石と呼ばれる城内第3位の城石があります。築城の努力が偲ばれます。

最大の城石がここ桜門の桝形虎口に置かれていることは、この地点がいかに重要な場所であるかの証とも言えるでしょう。本丸へ至る唯一の大手虎口であり、万が一、二の丸が占領されて本丸のみでの籠城を余儀なくされた場合、最も激戦になると想定される場所でもあるのです。

ちなみに、第2位の城石が置かれているのは二の丸北西の搦手・京橋口になります。先述したように大阪城は西から攻められる可能性が高く、二の丸の虎口では大手門と同様に西側に位置しています。大手門に次ぐ重要性の高い場所だったことが城石からも想像できるようになっているのです。

大阪城は虎口にも注目です

今回ご紹介した「大手門」と「桜門」は堅固でありながら、城の面白いエピソードも秘められていました。虎口は城の重要な部分であるが故に、こうした逸話が生まれる場でもありました。また、城下町、縄張を踏まえて虎口防衛のパワーバランスが計算されていることが城石から想像できるのも大阪城ならではです。

城の天守閣のみではなく、虎口でも足を止めてよく観察してみましょう。変わった防御の工夫や面白い発見に気付くことができるかもしれません。

※説明のない城郭用語については、MEMOのリンク「文化薫る丹波の町で徳川の堅城を攻略しよう〜篠山城〜」をご参照いただけると幸いです。

※「比類なき最強城郭、多彩な魅力は搦手にあり〜大阪城〜」では、天守閣から京橋口に至るまでの多彩な魅力をご紹介しています。

掲載内容は執筆時点のものです。

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