浅間山は群馬県嬬恋村と長野県軽井沢町にまたがり、標高2568mの世界でも有数の活火山です。今回はそんな浅間山の火山活動の歴史でも甚大な被害となった天明3年(1783年)の大噴火の痕跡を辿る旅です。まずスタート地点は鬼押出し園です。ここは上信越高原国立公園内にあり、浅間山の群馬県側の山麓にあります。園内は4つの見学コースからなっていますが、好きなように自由に散策できる構成になっています。
この奇岩だらけに見えるこの世界は1783年の浅間山大噴火の際に流出した溶岩が冷えて固まったもの。名前の由来は火口で鬼が暴れ岩を押し出したという当時の人々の印象からきています。
8月5日午前10時頃に発生した大爆発によって土石流が発生し12キロ先にあった鎌原村はその下に埋まる事になります。土石流の後に噴出し冷えて固まった溶岩が今回の鬼押出し園の岩たちです。
日本でも外国でもない・・・見たことのないような景色が広がります。この岩たちほとんどが人間よりも大きな岩という所もその景色の要因となっています。そんな巨大な岩たちが見渡す限りに広がるのです。噴火から200年以上が経過した今は植物たちも生えているので美しい景色ともなっているのですが、噴火の恐ろしさを一目で体感するのにこれほどの場所もありません!
提供元:嬬恋郷土資料館
地図を見る鬼押出し園の次は嬬恋郷土資料館へ向かいましょう。標高にして200mほど下がります。この資料館では嬬恋村の特産品であるキャベツの資料も充実しているのですが、何といっても天明の大噴火に関する資料が充実しています。なぜならばこのエリアは大噴火によって埋まってしまった鎌原村のあった場所にあり、鎌原地区での発掘調査によって出土した資料がここにはあるのです。
絵図や出土品などの展示物、ビデオ映像などから当時の生活の様子、どのような大噴火だったのか?その結果の天明の大飢饉に至るまでが詳しく解説されています。火山という物が一度大噴火を起こした時にどのような災害に見舞われるのか?。
遠い世界での話ではなく、目の前に生活の痕跡・証拠が並んでいるというのは大きな体験の1つになることでしょう。また出土品が焦げていないという事から火砕流ではなく土石流だったという説明も目の前に出土品がある事で非常に説得力を持って語りかけてくれます。
提供元:嬬恋郷土資料館
地図を見る資料館には火山災害という共通の歴史を持つ事が縁でこのようなポンペイの噴火犠牲者の人型レプリカも展示されています。火山噴火によってあっという間に村がまるまる埋まってしまったという歴史は同じなのです。ところがこの資料館のパノラマ展望室からはポンペイとは全く異なる景色が広がります。
そこに広がるのは鎌原村です。そこから見える景色は過去に大災害があった事を感じさせません。しかしそこがかつて土石流に襲われた事は事実なのです。ポンペイとの大きな違いはその場所で再び生活を始めている事です。
嬬恋郷土資料館から徒歩1分ほどの場所に鎌原観音堂はあります。赤い素敵な橋が架かっていて15段の石段を登ると観音堂へ行く事ができます。登らずにこの橋の前で是非立ち止ってください。実は発掘調査の結果、石段はかつて50段あり(今ある石段は下から数えて35〜50段目になりますね)、立ち止った場所の下からはお年寄りと若い女性の2遺体が発見されています。遺体は11段目にありました。母を背負って逃げた女性だったのでしょうか・・・
鎌原地区ではこの観音堂に逃げられた人と村外に居た人だけが生き残る事が出来ました。犠牲者の数は477人です。
目の前の石段15段。さらに35段分低い所に本来は入り口があった(高さにして5.5m低い場所が本来の高さ)。それを考えると被害の凄まじさをさらに実感できるのではないでしょうか。
今回の旅は1本の道だけで完結します。スタート地点が浅間山の近く「鬼押出し園(標高約1100m)」。ゴールが鎌原観音堂(標高約900m)までは9キロの道のりでした。その観音堂のある嬬恋村の鎌原地区は浅間山の火口からは約12キロの地点です。そこで鎌原観音堂の石段が5.5m埋まったというその実体験は災害の大きさを追体験するのに十分だったのではないかと思います。
災害列島日本でかつての大きな災害の痕跡をこれほど手軽に知る事ができる事、かつて大災害に見舞われた場所で再び生きる決意をした人々の事を考える事は貴重な経験になる事でしょう。
今は美しい景色が広がり、素敵な温泉も沢山あるエリアです。しかしその景色も温泉もその背景には火山という物がある。そしてこの地には悲しい大災害の歴史がある。そしてそれは1人でも多くの人が知っていて損ではないとオススメできる旅です!
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