世界遺産!琉球王国の王城で知る歴史とグスク〜首里城〜

世界遺産!琉球王国の王城で知る歴史とグスク〜首里城〜

更新日:2015/03/06 14:04

首里城は南山、中山、北山に分かれていた沖縄本島を統一した尚巴志(しょうはし)の居城に始まります。統一後、尚巴志を王とする琉球王国が誕生し、首里城は琉球王国の王城となりました。

港町・那覇を見下ろす丘陵地にあって眺望良く軍事面にも恵まれた立地で、湧き水も豊富。日本・中国・朝鮮各国の意匠や装飾を取り入れた王城は政治や儀式も行われ、実に華やかでした。今回は琉球王国の歴史も垣間見える首里城へ誘います。

首里城の外に立つ鮮やかな楼門「守礼門」

首里城の外に立つ鮮やかな楼門「守礼門」
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那覇中心市街の方面から首里城に向かうと最初に現れるのが、この「守礼門」です。創建は1527〜1555年の尚清王の時代と伝えられています。掲げられているのは「守禮之邦」という扁額。「琉球は礼節を重んじる国である」という意味に理解されがちですが、それぞれの字にはもう少し深い意味があるようです。

「禮」すなわち「礼」は、中国皇帝に対する非常に深い礼の作法を指し、「邦」は小国の意味を表します。これをまとめると、「小国であるわれわれ琉球王国は、中国に対して深い礼を守ります」といった意味になるのです。本来、この扁額が掲げられていたのは中国からの使者が訪れた時だけでした。中国の冊封体制に取り込まれ、明確な上下関係のもと謙虚に振る舞っていたことが窺えます。

しかし、冊封体制は決して不平等な貿易を強いるものではなく、むしろこれによって日中間の中継貿易で大きな利益を得ることができました。琉球王国にとって上下関係は大した問題ではなく、実利面を重視していた証と言えそうです。

そもそも守礼門自体、城外の飾り門に過ぎません。ここに中国に対してただ隷属しているわけではない、という矜持が込められていたようにも感じられます。

グスクの真骨頂、曲線の城壁

グスクの真骨頂、曲線の城壁
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守礼門をくぐると沖縄のグスク(沖縄では城のことをグスクと呼ぶ)の真骨頂、曲線に積まれた圧巻の城壁です。本土では産出されない、加工のしやすい琉球石灰岩の切石が布積みされており、死角をなくした曲線美となっています。石垣の前に堀はなし。死角のない高石垣の前にこれ以上の防御施設はいらないと判断したか、石灰岩の岩盤によって堀が築けなかったものと思われます。

それでも門の前には、門前に殺到した敵に対して少しでも多くの側射ができるようにした絶妙なカーブが利かせるなどの工夫が見られます。もしも、戦国時代の本土にこんな城があったらさぞかし攻城側は驚いたことでしょう。

さて、写真は勧会門から城内に入り、中心部に向かってさらに瑞泉門、漏刻門の2つの門をくぐった先の空間です。石垣の先に沖縄らしいコンクリート造の白い町並みが広がり、果ては太平洋でも日本海でもなく、東シナ海。沖縄が凝縮した景色も首里城の魅力なのです。

琉球王国の繁栄を伝える「万国津梁の鐘」

琉球王国の繁栄を伝える「万国津梁の鐘」
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先の空間には万国津梁(ばんこくしんりょう)の鐘があります。レプリカ(実物は沖縄県立博物館・美術館に収蔵)ですが、この鐘に沖縄で最も有名な文句が刻まれています。

「琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀を鐘(あつ)め、大明を以て輔車となし、日域を以て唇歯となす。此の二中間にありて湧出せる蓬莱島なり。舟楫(しゅうしゅう)を以て万国の津梁となし、異産至宝は十方刹(じっぽうさつ)に充満せり。」

案内板にはこの意訳が記されています。
「琉球王国は南海の美しい国であり、朝鮮、中国と日本との間にあって、船を万国の架け橋とし、貿易によって栄える国である」

鋳造は第一尚氏王統後期の1458年。マラッカ(現、マレーシアの都市)の通好も始まり、那覇がアジアの国際港湾都市として大きく羽ばたきはじめた頃でした。当時が、那覇の貿易で東アジアと広く結ばれた琉球王国の、最も光り輝いていた時期なのかもしれません。

琉球の支配と繁栄の象徴「正殿」と「御庭」

琉球の支配と繁栄の象徴「正殿」と「御庭」
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万国津梁の鐘のある場所から、広福門をくぐり下之御庭(しちゃぬうなー)を通過、木造赤瓦の巨大な奉神門を抜けると、正殿と御庭(うなー)のおあつらえ向きの景色が広がっています。
御庭には磚(せん)というタイル状の赤い敷瓦と琉球石灰岩が縞模様に敷かれており、これが儀式の際には官位の順番に整列するための目印となっていたようです。

また、正殿は日本、中国、朝鮮の建築様式を取り入れた琉球建築で、技術の粋を集めています。入母屋造りで本瓦葺き。巨大な唐破風には絢爛豪華な意匠が施されています。ハの字型の階段や装飾化した龍柱、宮殿で2層3階建てになっている点など琉球独自の様式も見られます。

装飾によく見られるのは龍の飾りです。龍は邪悪なものをはね返すめでたい動物とされ、天子になぞらえられたり、天子を美しく飾る図柄として用いられたりしました。外観・内装を合わせるとその数33体にも上ります。正殿の中には玉座があり、政務や儀式を司る場でした。龍をまとう正殿は、まさに国王の居館にふさわしいものといえるでしょう。

しかし、いずれの龍も爪の数は5本ではなく4本。これは中国皇帝への配慮で、冊封体制下の国では4本とされていました。ぜひ、近づいて装飾を確かめてみましょう。

多くの要人を歓待した北殿には、儀式を再現した圧巻のミニチュア

多くの要人を歓待した北殿には、儀式を再現した圧巻のミニチュア
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御庭には、正殿以外にも右手、塗装のない番所と南殿や、左手の北殿があります。番所は行政施設の表玄関にあたり、南殿は日本式の年中行事を行ったり、薩摩藩の役人を接待するための建物です。北殿は冊封使の接待所で、アメリカのペリー提督の接待、近年には沖縄サミットの晩餐会にも利用されました。

北殿の内部では首里王府の解説や映像展示、ミニチュアでの式典の再現を行っており、ここでどのように儀式を行い、御庭のストライプがどのように活かされていたのかはっきりと分かります。写真は朝拝御規式(ちょうはいおきしき)という正月儀式を再現したミニチュアです。国王と役人たちがともに新年の挨拶をするというもので、琉球王国最大の儀式でした。

首里城のはじまりと歩み

首里城の創建された年は、資料が乏しく明確ではありません。1427年に建立された碑には首里城の存在が明示されており、現在の定説では14世紀末とされているようです。それから15世紀に整備・拡張等が行われ、現在の姿となります。琉球王国の歩んだ450年もの間、首里城は常に国の中心としての存在を果たしてきました。

王城としての歴史は1879年の琉球処分によって終わりますが、4回の焼失を経験しながらも不死鳥のように甦り、現在も世界文化遺産に登録され「琉球王国ここに在り」と言わんばかりの存在感を放ちます。琉球王国の全てが込められたここ首里城には、「王道観光地」というだけに留まらない奥深い魅力が詰まっているのです。

※御庭、番所、南殿、正殿、北殿は有料区域となり、めぐるにはチケットを購入する必要があります。

※営業時間、料金など詳細はMEMOのリンク「首里城公園」よりご参照ください。

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