出雲と松江に挟まれた小さな町の宿駅本陣〜八雲本陣〜

出雲と松江に挟まれた小さな町の宿駅本陣〜八雲本陣〜

更新日:2015/02/24 16:35

宍道湖の南岸に位置する宍道町(現、松江市宍道町)は海上交通によって栄えた宿場町です。出雲国一国を治めた松江藩の歴代藩主が国内巡視や出雲大社の参詣、鷹狩りなどを行う際に宿泊しており、本陣とした木幡(こわた)家住宅は現在も八雲本陣として残されています。

今回はその八雲本陣をご案内します。

入口は通用口に、御成門が2つ

入口は通用口に、御成門が2つ
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八雲本陣は宍道町の中心部にある約1200坪、部屋数40を超える広大な宿駅の本陣です。道に対して白壁黒板塀が続き、その中央に紅殻塗り格子造りの玄関があります。こちらが入館時の玄関でもあり、日常の通用口なのですが、その左手には2つの御成門が見られます。

右側の屋根付き門は藩主を迎えるための門で、ここから駕籠で庭へ入り、書院の庭先で駕籠を降りて座敷に上がりました。昭和天皇が島根国体のために来県された際には、この門の前で車から降りて、徒歩で入られたそうです。

左側の門は冠木(かぶき)門という形式の門で、高い格式を証明しています。こちらは大正天皇がまだ皇太子だったころに行幸された際に通られた門です。この2つの御成門が八雲本陣の誇り高い歴史を伝えています。

土間の吹き抜け壁には多くの火消し道具

土間の吹き抜け壁には多くの火消し道具
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さて、玄関を入ると土間になり、吹き抜け天井の高さに驚きます。交差する巨大な梁は力強く、壁には火消し道具が掛けられています。木幡家は私設消防団を抱えており、その遺物がここに残されているのです。

大きな黒い団扇は「まとい」として火事場に携行されたものです。これならば、火の粉も払えたのではないでしょうか。また、鳶口(とびぐち)、刺又(さすまた)といった延焼を防ぐために火元や周囲の建築物を壊す道具も複数見られます。木造建築ばかりだった江戸期、火消しは時間との勝負だったことが窺えます。

出雲独自の様式を伝える庭園

出雲独自の様式を伝える庭園
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廊下などから窓の外を見遣ると、庭園が広がっています。白砂の中に飛石を打っているのが珍しく、飛石も単調にならないように石の色が工夫されています。途中にアクセントとして切石が使われているのもユニークです。

庭園の様式は、茶室へのアプローチに見られる露地と書院庭を折衷したような具合になっており、これが出雲に古来より伝わる庭園造りを踏襲したもののようです。

大正天皇のために新築された「飛雲閣」

大正天皇のために新築された「飛雲閣」
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屋敷の奥部には、明治40(1907)年に皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)が山陰行啓の折、ご昼食を召し上がっていただくために新築された「飛雲閣」という間があります。

揮毫は東郷平八郎。木材や調度品は全国から集められ、格天井の風格、釘隠し、欄間の木像嵌(もくぞうがん)なども見ものです。木像嵌とは、天然木材を組み合わせて図柄を作成する技法になります。部屋を華やかにする美術品の数々も見逃せません。

今でも八雲本陣は宍道町の誇りです

屋敷内には、他にも「藩主の間」と呼ばれた書院や、家老・朝日丹波の旧邸を移築した「朝日丹波の間」などがあり、それぞれの部屋で美術品も鑑賞することができます。

本陣としての役目を終えた後も、長らく旅館業を営んでいました。江戸中期の民家建築を伝える貴重な存在として、昭和44(1969)年には国の重要文化財の指定も受けます。
実際に宿泊することを想像しながら見学するのも楽しいでしょう。どの部屋も庭園に面しており風情も良く、本陣として利用された歴史を偲ぶこともできます。川端康成、松本清張らも投宿しており、まさしく文人墨客お墨付き。

残念ながら、平成18(2006)年に旅館としての歴史に幕を下ろしました。しかし、松江藩歴代藩主、大正天皇、昭和天皇にゆかりのある本陣は一見の価値あり。出雲の民家建築の粋、ご堪能下さい。

■八雲本陣
料金:500円
営業:10〜16時
休日:火曜日

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