歴史的見所と戦闘的縄張を秘めた桜纏いし名城〜会津若松城〜

歴史的見所と戦闘的縄張を秘めた桜纏いし名城〜会津若松城〜

更新日:2015/02/20 14:35

会津若松城は江戸期まで新潟、米沢、日光などを結ぶ交通の要衝の地に築かれた城であり、東北の要石でした。それ故に、蘆名直盛、伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝、加藤嘉明…と、初代会津藩主・保科正之の入城まで、戦争や天下人の思惑により何度も城主が入れ替わりました。

城もその影響を受けて複数の整備が行われ、東北随一の堅城へと変貌を遂げました。ここでは、そんな歴史に翻弄された名城・会津若松城をご案内します。

会津若松城、またの名を「鶴ヶ城」

会津若松城、またの名を「鶴ヶ城」
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一般的には「会津若松城」と呼ばれ、国史跡にも「若松城」の名で指定されていますが、地元では「鶴ヶ城」と呼ばれています。というのも実際の呼び名は「会津若松城」より「鶴ヶ城」のほうが古いのです。会津若松城の大改修を行った蒲生氏郷が、自身の幼名である「鶴千代」から「鶴」の字を引用したといわれています。

戊辰戦争時、旧幕府側に味方した会津藩を対象に新政府軍による攻撃が行われ、1か月の籠城の末に降伏。会津自慢の城は明治政府の廃城令によって全て取り壊されました。それから一時競輪場を経て旧藩士によって跡地が買い戻され、松平家に献上。市に寄贈されると昭和40(1965)年に晴れて再建に至りました。

ただし、少し注意すべきことがあります。再建された天守閣の姿は蒲生氏郷の頃のものではなく、氏郷の後に大改修をした加藤明成(加藤嘉明の息子)からの天守閣です。そして、天守閣の屋根には赤瓦が葺かれています。保科正之の命で、寒さに強く凍み割れない瓦が瀬戸の陶工によって発明されたのです。この技術は会津若松市の隣、会津美里町の会津本郷焼に今も受け継がれています。

白漆喰の純白な城と会津印の赤瓦。そして、美しくも儚い桜…。これらは200年以上もの間、純真に江戸幕府を支え続けた会津武士道の心を物語るかのようです。

現在、一般的となっている「会津若松城」の名は、昭和9(1934)年に国史跡に「若松城」として指定されたことで浸透していったと考えられます。かつての風雅な名前ではなく、ただ地名から取ったところも無機質で行政的な気がします。訪れた際は、どうか親しみを込めて「鶴ヶ城」と呼んで下さい。

天守閣に繋がる「鉄門」と「干飯櫓」

天守閣に繋がる「鉄門」と「干飯櫓」
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さて、天守閣のある中心部は本丸御殿(現存せず)を囲む本丸と、本丸の北と西を囲む帯郭(おびぐるわ)と呼ばれる部分に分けられています。中心部への虎口3か所はいずれも帯郭と繋がっており、城の中心部に到達しても直接本丸へは侵入できない構造になっています。

これは氏郷による改修です。天守台と走長屋の石垣を比較しても、その積み方で走長屋が増築部分であることがよく分かります。天守台の石垣は自然石を積み上げた「野面積み(のづらづみ)になっているのに対し、走長屋の石垣は石を加工して隙間を無くして積む「打込接(うちこみはぎ)」になっているのです。

写真は天守閣から南を撮影したものです。天守閣から走長屋が延び、端に干飯(ほしいい)櫓、中間に鉄(くろがね)門が見られます。干飯櫓は本丸南を守るとともに、字のごとく籠城時の非常食となる干し飯を保存していた櫓です。

なお、戊辰戦争時、松平容保はこの鉄門の2階で指揮を執っていました。本丸南は田園で見晴らしがよく、攻城側は隠れることができません。そのため、南方の防衛も緩め、槍衾(やりぶすま、槍を隙間なく並べて石垣を登れないようにした)を築いて藩士の中でも玄武隊などの比較的高齢者に守備を固めさせました。

開城後、城内を見た谷干城(たにたてき、戦争の際に軍監として活躍した土佐藩士)が「南から攻めたら早く落とせた」と語り、後悔したと言われています。

攻城者を殲滅する天守閣の番人「北出丸」

攻城者を殲滅する天守閣の番人「北出丸」
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中心部を守るのは、西側の西出丸、北側の北出丸、東側の二の丸。二の丸の北には伏兵曲輪が付属し、二の丸さらに外側(東側)を三の丸(現存せず)が囲みます。

二の丸、三の丸が東方に配置されていることから、もともとは東側からの攻撃を想定していたと思われます。西側、北側もかつては馬出だったようです。やがて街道整備が行われると、それに合わせて大手門が北に移されて城の向きが北となり、2つの馬出は強化を目的に拡張されて出丸になりました。なお、これを改修したのは明成のようです。

写真は北出丸から見た、新政府軍が攻めてきたという北出丸大通りです。会津藩士たちの武家屋敷街はこの通りを中心にして広がっていました。大手門は北出丸の東側部分にあるのですが、その場所を目指して進むと北出丸からの側射を受け、大手門前に到達できたとしても帯郭と伏兵曲輪を合わせた3方向からの攻撃を受けるようになっています。

大手門反対側から攻めた場合も同様に、帯郭と西出丸からも攻撃を受けるようになっているため、北出丸の虎口に近づくだけでも至難の業です。これこそが鶴ヶ城の戦闘的な部分。ただ守るのではなく、侵攻する敵を返り討ちにしてやろうとする気概が縄張からよく感じられるのです。事実、攻撃に阻まれた新政府軍は1か月の攻防戦にもかかわらず、とうとう降伏まで大手門の場所も分からなかったと言われています。

ちなみに、北出丸自体が占拠されても周囲から攻撃して包囲殲滅できるようになっていることから「鏖(みなごろし)丸」という別名が付いていました。

中心部に迫った敵の望みを絶つ「廊下橋」

中心部に迫った敵の望みを絶つ「廊下橋」
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各出丸によって北と西の防衛は堅く、南は田園。それでは、東側はどのようになっていたのでしょうか。かつての城の正面を見てみましょう。

まず、三の丸の外側は空堀(水のない堀、一定の規模があれば防衛機能は水堀に劣らない)と土塁(土で造られた防御施設)で守られ、虎口は3か所。東の不明門を除く、北の埋門と、南門は喰違虎口(くいちがいこぐち、虎口を喰い違いさせて見通しが利かないようになっている)になっていたようです。

三の丸の次は二の丸。こちらは水堀と土塁で守られており、東と南にある2つの虎口には桝形が見られます。南から侵攻する敵は、本丸からも攻撃できるような縄張になっています。月並みの防御力は備えていたと言えます。

しかし、東側最大の見どころは二の丸と中心部・帯郭を結ぶ廊下橋です。当初は土橋に屋根をのせた、名称通りの「廊下橋」でした。しかし、明成の改修時、窪ませてその上に木橋を架けたのです。これによって、造られたのが古く防衛機能も一つ一つは凡庸な三の丸・二の丸を切り捨てることができるようになりました。

廊下橋の架かる中心部側は高石垣になっており、横矢も利いています。切り落とされると、ここから中心部への侵攻は非常に困難です。こうして、結局は決死の覚悟で北出丸か西出丸を攻めなくてはならないようになっているのです。

鶴ヶ城の弱点と桜について

鶴ヶ城は北出丸、西出丸によって強力に守られています。東側も工夫は乏しいですが、三の丸・二の丸の連郭式となっているため、廊下橋を落とす事態はまず起きないだろうと思えるほど、充分な防御力はありました。それを証明するように戦争時、敵を一兵たりとも城内に侵入させることはありませんでした。それほどの堅城なのです。

しかし、大きな弱点もありました。それがアームストロング砲です。
佐賀藩がイギリスから輸入して改良を加えたこの大砲の精度は約3キロ。威力も高く、天守閣まで直線距離で1キロほどしかない小田山の中腹は絶好のポイントです。新政府軍は小田山を占拠すると、そこから天守閣に向けて砲撃しました。これに大きく苦しめられました。

様々な歴史を乗り越えてきましたが、現在は桜名所としても有名になりました。ソメイヨシノを筆頭にエドヒガン、シダレザクラ、ヤマザクラが咲き誇ります。見頃は4月中旬から2週間程度。例年20日前後に満開を迎えます。一見の価値はあります。

ぜひ、会津の歴史を少し知ってから旅行に臨むと良いでしょう。
より感慨深い旅になるはずです。

※説明のない城郭用語については、MEMOのリンク「文化薫る丹波の町で徳川の堅城を攻略しよう〜篠山城〜」をご参照いただけると幸いです。

掲載内容は執筆時点のものです。

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