登るほどに増す石垣の威厳と風格〜淡路・洲本城〜

登るほどに増す石垣の威厳と風格〜淡路・洲本城〜

更新日:2015/02/11 12:08

瀬戸内海で最大の島「淡路島」は、『古事記』や『日本書紀』によるとイザナギ、イザナミの2神が日本最初の国土となる「おのころ島」を生み出した国生み神話の地です。

そして、大阪湾を望む洲本平野の町である洲本が、古くから淡路島全島の中心をなしてきました。洲本の南にそびえる洲本城は、淡路支配の要です。ここでは、石垣から見える洲本城の堅牢性と、その他見どころをご紹介します。

平野の居館と山上の天守の2部構成

平野の居館と山上の天守の2部構成
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洲本城は三熊山頂に展開する山城とその麓に整備されていた居館からなり、この2つが登り石垣(山の斜面に連なる石垣、山腹から敵が攻めてくることを防ぐために設けられている)で結ばれています。

写真から分かるように居館は水堀で囲むことで一定の防御力を備え、その背後高所に天守閣が城下を睨むようにそびえています。

序幕は麓から連なる「西登り石垣」

序幕は麓から連なる「西登り石垣」
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居館のあった場所の脇、現在のホテル「夢海游 淡路島」または地方裁判所洲本支部の脇から延びる遊歩道を山上に向かって歩いてゆくと、最初に見られる城の遺構らしいものが「西登り石垣」です。登り石垣の外側には、竪堀(山の斜面に縦方向に掘られた空堀)まで設けられており、山腹からの侵入を強く警戒していたと考えられます。

しかし、遊歩道からはやや分かりにくく、斜面を注意深く見る必要があります。石垣自体も残念ながら崩れてしまっている部分が見られますが、山上へと続く姿に洲本城の壮大さが垣間見えるようです。

なお、遊歩道を登りきると天守閣のある本丸の西側に至ります。南に迂回すると大手虎口から、反転して天守真下の道を経由すると搦手虎口から本丸に入ることができます。

近道は搦手虎口ですが、仮に攻城側がここを攻め上ったとしても、反転しなければ分からない搦手は気付きにくいでしょう。当時は門や城壁で目隠しするなどして隠し、むしろここから虚を衝いて攻城側に攻撃を与えようとする狙いがあったかもしれません。

南方の防衛拠点「南の丸」

南方の防衛拠点「南の丸」
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現在、徒歩で洲本城本丸を目指す多くの人は、先述した市街地から続く北側の遊歩道を採りますが、自動車利用の場合は洲本温泉から蛇行する道路・三熊山ドライブウェイがあります。実はこの道こそが山城・洲本城の正攻ルートであり、途中の大手門跡がそれを証明しています。

攻城側がここから本丸を目指すと阻まれるのが南の丸になります。南の丸は高石垣の上にあり、石垣の一段高くした隅櫓台があります。ここで南から攻め上る敵と、大手門を経由して本丸へ攻め上る敵を迎撃しました。

写真の場所から本丸へは、右へクランク状に折れて南の丸のそばを通り、桝形虎口を抜けてようやく大手虎口に至ります。こちらもなかなか攻めにくそうです。
余談ですが、石垣に見られる斜めの切れ込みは増築痕です。南の丸は増築で、より南に張り出し、隅櫓台も増築によって築かれたと推測できます。

本丸へのエントランスは威風堂々たる大階段「本丸虎口石段」

本丸へのエントランスは威風堂々たる大階段「本丸虎口石段」
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居館から登り、本丸石垣から逆時計回りに行く。または、大手門から南の丸下を経由するとたどり着くのが、この本丸虎口への大階段です。

本丸は一段と高い石垣で囲まれた場所にあり、本丸へ行くにはさらに高所に登る必要があります。そのための階段がこちらです。高く、幅広く、威風堂々としています。攻城側に城主の力を見せつけているかのようです。この階段を登ると本丸への桝形虎口があり、これを抜けるとようやく眼前に洲本城天守台が現れます。

守りに守られた洲本城中心部「本丸」

守りに守られた洲本城中心部「本丸」
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標高129メートル、三熊山頂の本丸です。
南側中央には本丸虎口、西側北寄り(写真では天守台下)には搦手虎口があり、北側に連結式天守台(大天守と小天守を渡櫓で連結した天守台)があります。そして、本丸を囲むように石塁(石垣で固めた台のようなもの)が設けられています。

敵が攻めてきた際、石塁に登ると攻め上る敵がよく分かり、狙いやすいです。そのため、石塁にすぐ登れるようにいくつもの武者走り(石塁の城内側に設けられた通路や石塁に登るための階段)があります。

かつては天守台に天守閣が立っていたとする説がありますが、真偽は不明です。しかし、慶長20(1615)年の一国一城令によって建物はすべて取り壊されてしまったので、どちらにせよ江戸の初めごろには天守閣は消えていたことになります。

現在、天守台に立つのは史実に基づかない、竜宮城をイメージした模擬天守です。桝形虎口や天守台、石塁に武者走り…、建築物こそ往時のものはありませんが、本丸の各防御施設はよく保存されており、本丸がいかに堅牢だったかがよく分かります。

補足します

洲本城は熊野水軍によって築城され、豊臣秀吉の家臣である仙石秀久や脇坂安治らを経て、徳島藩家老・稲田氏が居館を築いて居城とした城になります。戦国時期において、洲本城は大坂城西の守りを固める重要な役割を担っていました。

天守台に立つと、洲本市街や大阪湾、紀淡海峡を一望できる素晴らしい景色も眺めることができます。ここから城下を見下ろしていたのです。しかし、この記事ではここまで。美しい景色はご自身でお確かめください。

※説明のない城郭用語については、MEMOのリンク「文化薫る丹波の町で徳川の堅城を攻略しよう〜篠山城〜」をご参照いただけると幸いです。

掲載内容は執筆時点のものです。

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