日本三大仇討を解く!箱根湯本・曾我物語の歴史とミステリー

日本三大仇討を解く!箱根湯本・曾我物語の歴史とミステリー

更新日:2015/03/06 18:20

Naoyuki 金井のプロフィール写真 Naoyuki 金井 神社・グルメナビゲーター
日本三大仇討をご存知ですか?
一つは大変多くの方が知っているあの「忠臣蔵」ですが、あと二つは意外と知られておりません、
一つは江戸時代に渡辺数馬と荒木又右衛門が、伊賀国上野の鍵屋の辻で討った事件で、通称「伊賀越えの仇討」と呼ばれているもので、最後の一つが、鎌倉時代に起こった「曾我兄弟の仇討」です。
今回は曾我兄弟の仇討を、兄弟が祀られる箱根「正眼寺」と共にご紹介いたします。

湯坂路の信仰

湯坂路の信仰

写真:Naoyuki 金井

地図を見る

正眼寺の創建は古く鎌倉時代までさかのぼります。
正眼寺の前の道は湯坂路と呼ばれ、箱根越えの街道(現在の旧石畳街道)に繋がる道です。

古の箱根路は、山道が険阻なうえに山賊などの出没により大変危険な道とされていました。
そこで地元では、箱根路の安全祈願のための地蔵信仰が盛んとなり、養和元(1181)年に地蔵堂が建てられ、必ず旅人が立ち寄って安全祈願をする要地となり、後に地蔵堂を庇護する正眼寺となり、境内には大きな地蔵様が祀られており、往時の地蔵信仰を偲ばせてくれます。
北側に広がる箱根湯本の温泉街を見降ろしながら、箱根を楽しむ旅行客を見守っています。

戊辰戦争の戦禍

戊辰戦争の戦禍

写真:Naoyuki 金井

地図を見る

一時期荒廃し、寛永3(1626)年に再興された正眼寺でしたが、交通の要衝である箱根の地は、幕末に西から攻めのぼった官軍と、東からの幕府軍との間の箱根戊辰戦争に巻き込まれ、そのほとんどを焼失しました。

そして明治37(1904)年頃に建てられた実業家・今村繁三氏の別荘を、昭和7(1932)年に移築したのが現在の本堂で、この本堂とともに庫裏は国登録有形文化財に登録されました。

この他、●地蔵菩薩立像/県指定重要文化財、●本堂襖絵/町指定重要文化財、●木造地蔵菩薩立像/町指定重要文化財、●地蔵菩薩立像胎内納入品/町指定重要文化財などが、戊辰戦争の戦禍を免れ現在までその歴史を継承しています。

仇討を胸に秘めた兄弟

仇討を胸に秘めた兄弟

写真:Naoyuki 金井

地図を見る

ことの起りは平安時代末期、工藤祐経とその叔父・伊東祐親の領地争いで、安元2(1176)年に工藤祐経は郎党二人に命じて暗殺を企むのですが、暗殺したのは祐親ではなく嫡男・河津祐泰でした。
暗殺された河津祐泰には、妻と一萬丸と箱王丸という二人の兄弟がおり、妻が曾我祐信と再婚したことから兄弟も曾我姓となります。

兄弟は厳しい生活の中で成長し、兄の一萬丸は、元服して曽我の家督を継ぎ曾我十郎祐成と名乗り、弟の箱王丸は、父の菩提を弔うべく箱根権現社に稚児として預けられました。
文治3(1187)年、箱王丸は箱根権現社で頼朝に随参した敵の工藤祐経を見つけ、復讐しようと付け狙いますが、逆に祐経に諭され、現在重要文化財である「赤木柄の短刀」を授けられます。工藤祐経の余裕と言ったところでしょう。

その後、箱王丸は出家を嫌い箱根を逃げ出し、縁者にあたる北条時政を頼り元服し曾我五郎時致となり、曾我兄弟は父の仇討ちを決して忘れなかったのです。
境内には、その兄弟が力試しをしたと伝わる槍突石が残っています。

仇討本懐をとげた兄弟

仇討本懐をとげた兄弟

写真:Naoyuki 金井

地図を見る

建久4(1193)年、源頼朝は、富士の裾野を舞台に軍事訓練である大規模な狩猟を行いました。工藤祐経も参加しており、祐経の陣は、現在の静岡県富士宮市にある音止の滝周辺でした。
軍事訓練の最終日、曾我兄弟は、松明を手に幾つもの木戸に防げられながらも祐経の寝所に押しいり、酒に酔って遊女と寝ていた祐経を起こして、ついに仇討を成し遂げたのです。
この時、止めを刺したのが、弟の五郎時致は祐経から授けられた「赤木柄の短刀」と言われています。

この後、騒ぎを聞いて駆けつけた武士たちと渡り合い10人斬りの働きをしながら、兄十郎は朝比奈四郎に斬殺され、弟五郎は更に頼朝に向かって突進し、一時、頼朝も身構えたほどでしたが、家臣によって捕われます。翌日、頼朝の面前で仇討ちに至った心底を述べるのですが、祐経の遺児に請われて斬首を申し渡されました。

この曾我兄弟を供養するために建てられたのが正眼寺裏山にある「曾我堂」で、お堂の中には、曾我兄弟化粧の地蔵像二体が安置されており、春・秋の彼岸には内部が公開され地蔵像を拝顔することができます。

都市伝説化した仇討

都市伝説化した仇討

写真:Naoyuki 金井

地図を見る

後世、この仇討は武士社会における仇討の模範とされ、この仇討を題材とした軍記物語「曾我物語」が創作されました。
しかし、現代においてこの仇討には、いくつかの謎が存在するといわれています。その根拠は“死傷者の多さ”“事件後、頼朝の弟範頼が失脚・殺害”“有力御家人の失脚・出家”“同時期に常陸国武士団の粛正”などが挙げられています。

最大のミステリーは、本来、祐経の仇討を遂げた後は、呪縛されるか、自害するとといった行動が普通と考えられるのですが、兄亡きあと弟が、何故頼朝へ突進しなければならなかったという不可解な点で、これは弟五郎のパトロンであった北条時政による源頼朝暗殺計画ではなかったのか、という説です。
この他にも、大庭景義・岡崎義実による頼朝政権クーデターカモフラージュ説など、賑やかに主張されています。

悠久の浪漫である仇討と、都市伝説化した陰謀などの歴史を偲んで、境内にある足湯でほっこりしてみては、いかがでしょうか。

最後に。。。

今回は日本三大仇討の一つ「曾我物語」の概略をご説明しましたが、この周辺には曾我兄弟所縁の地がまだあります。
箱根神社境内には「曽我神社」と「兄弟杉」、元箱根石仏・石塔公園には「俗称曾我兄弟および虎御前の墓」で、正眼寺と併せて曾我兄弟の所縁の名所を巡るのも良いでしょうし、正眼寺周辺には東に早雲寺、西に東海道箱根旧街道(石畳街道)などの観光名所も含めて巡られるのも良いでしょう。
箱根温泉と共に、ひと味違う旅情、古の日本三大仇討「曾我物語」を楽しんでみてはいかがですか。

掲載内容は執筆時点のものです。 2015/01/18 訪問

- PR -

条件を指定して検索

- PR -

この記事に関するお問い合わせ

- 広告 -