「維新の三傑」の一人で長州藩を率いた桂小五郎の故郷・萩へ

「維新の三傑」の一人で長州藩を率いた桂小五郎の故郷・萩へ

更新日:2015/01/21 13:49

村井 マヤのプロフィール写真 村井 マヤ 中国・九州文化的街並探検家
木戸孝允(1833-1877)は、幕末に欠かせない長州藩士です。「維新の三傑」とも呼ばれ明治政府の参与にも。クールで二枚目なイメージのある木戸孝允は、どんな少年時代を萩で過ごしたのでしょうか?『花燃ゆ』で沸く山口県萩市へ、彼が約20年間過ごした旧宅を目指して旅しませんか?旧宅の周囲は、城下町の風情を色濃く残した地域で、高杉晋作立志像や誕生地、旧久保田家住宅など史跡も多く、萩を満喫できますよ♪

萩市で誕生!薩長同盟実現のもう一人の主役・桂小五郎

萩市で誕生!薩長同盟実現のもう一人の主役・桂小五郎

写真:村井 マヤ

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木戸孝允こと桂小五郎は、天保4(1833)年に、萩藩医和田昌景の子として生まれました。8歳の時、近所に住む桂家の養子となり桂小五郎と名乗りました。けれども、養父母が死亡したため、実家の和田家で江戸に出る嘉永5(1852)年まで過ごしたそうです。こういうことはよくあったのでしょうか?ドラマ『花燃ゆ』の吉田松陰もそうですよね・・。
和田家は、藩医で武士ではありませんでしたが、比較的裕福だったようです。小五郎は、長男として生まれましたが、体が弱く成長しないとみなされ、異母姉が婿を迎えて和田家を継ぐことになっていました。したがって、小五郎は桂家の養子となったのです。和田家は、伝承ですが毛利元就の7男天野元政の子孫ということです。

江戸時代の藩医のお屋敷の様子も分かる貴重な和田家は、「木戸孝允旧宅」として見学可能です。当時の姿を良く残しているため国の史跡にもなっています(1932年)。

明倫館で、兵学を学び「事をなすの才あり」と松陰に評される

明倫館で、兵学を学び「事をなすの才あり」と松陰に評される

写真:村井 マヤ

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木戸孝允旧宅は、浅瓦葺二階建て。大正15(1926)年に子孫の木戸幸一氏より萩市に寄贈されました。木戸孝允誕生の間や庭園などが残っており、室内は見学可能です。写真は、南側の8帖と6帖からなる公用の間から見える庭園の様子。

同じ景色を、小五郎も眺めたことがあるのかと思うと不思議ですね。
彼は、この実家で20歳まで過ごします。その間、17歳で明倫館で吉田松陰に兵学を学び「事をなすの才あり」と評されました。
小五郎は、松陰より1年後の嘉永5(1852)年に剣術修行を名目とした江戸留学をしました。ただし、藩から選ばれたわけではなく私費での留学でした。小五郎が、剣術の腕を磨いたのは、父親に元々武士の家柄ではないのだから、人一倍剣術に励むように言われたからだという逸話が残っています。

江戸では「江戸三大道場」の1つ、練兵館(神道無念流)に入門しました。めきめきと腕を上げ、入門からわずか1年で免許皆伝、塾頭に任命されたそうです。藩命で帰国するまで5年間塾頭を務め江戸で有名人になりました。そんな彼と、もしかしたら坂本龍馬は江戸の剣術試合などで出会っているかも知れません・・。これは想像ですが、安政4年(1857)年10月、龍馬23歳のとき、江戸の鍛冶橋土佐藩邸で、剣術試合が行われており、二人は出席しているのできっと顔を合わせたか、「ああ、あれが桂小五郎か」くらいは思ったかも知れません。

人間の運命とは不思議ですね。一藩士に過ぎなかった二人がいろんな場所ですれ違い、ついに歴史的な「薩長同盟」の立役者であり、新しい世の礎を築く人物になるのですから・・。

達筆で、ハンサムで、剣豪で、しかも切れ者!

達筆で、ハンサムで、剣豪で、しかも切れ者!

写真:村井 マヤ

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後年、名筆家と言われた木戸孝允。子供のころから達筆だったようで、和田小五郎時代の書や、桂小五郎となった11歳くらいの頃の書も残されています。和田小五郎だった7歳くらいに書かれた手習いには、「以っての外よろし(もってのほかよろし)」とほめ言葉入り!このほめ言葉は、上出来なものにしか書かれなかったそうで、城下で大評判になったそうですよ。また、8歳で養子になった桂小五郎ですが、彼が11歳くらいに書いた手習いには、「天晴見事見事(あっぱれみごとみごと)」と最上級の褒め言葉が・・。すごい!頭も良くて、剣豪で、ハンサムで三拍子そろってますよね♪まして字がうまい男性って太刀打ちできない気がします。写真の掛け軸になっているものが、「天晴見事見事」と褒めちぎられた手習いですよ。ほめ言葉は、朱色の墨で書かれていますので、是非ご覧くださいね。

藩医の息子から新政府の参与になった木戸孝允

藩医の息子から新政府の参与になった木戸孝允

写真:村井 マヤ

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藩医の息子として誕生後、8歳で150石の桂家の養子へ。ただし末期養子(まつごようし:家の断絶を防ぐために緊急に縁組された養子)のため90石でした。養父母死亡のため、実家の和田家で江戸に留学に行く20歳まで過ごします。最初は、桂小五郎、33歳の時藩命で木戸貫治(実名は孝允)と改めました。
17歳の時に、明倫館で吉田松陰に学びました。20歳で江戸へ留学。一年で、神道無念流・斉藤弥九郎道場の塾頭になり5年間その座に。江戸ではほかにも様式兵術、造船術・蘭学も学びました。もちろん、江戸で吉田松陰とも会っており、松陰のアメリカ密航計画にも同行を願ったそうですが、弟子思いの松陰に制されたと言います。ちょうどこのころ、藩主の息子とともに江戸入りした16歳の高杉晋作とも出会ったと思われます。

松陰と出会って10年後、小五郎27歳のとき松陰が亡くなり、遺体の埋葬をします。その頃から、藩の要職につき始め、京都にも赴き国事にも奔走。京都では、池田屋事件、禁門の変の敗北などに遭遇。その頃から「逃げの小五郎」の異名も。33歳で下関に行き、坂本龍馬とも会っています。木戸貫治と改名もしました。慶応2(1866)年に歴史的な「薩長同盟」の締結。
同じ年の2月に寺田屋事件があった際には、龍馬に見舞文も送り、龍馬を心配しています。
36歳の時に、版籍奉還の建言が出されました。39歳で、参議となり全権大使として渡米も。41歳で、日本に戻り42歳には文部卿を兼任したりしましたが、45歳で京都で病死。明治10(1877)年の臨終の際には、西南戦争に挙兵した西郷隆盛に対して「西郷、もういい加減にせんか」とうわごとを言ったといいます。国のために駆け抜けた人生だったという印象ですよね。

木戸孝允の45年の人生は、萩のこの呉服町の生家から始まりました。政治家としては遅咲きで、わずか15年くらいで様々なことを成し遂げたのです。平和な人生ではなく、何度も命を狙われながら明治を迎えました。そんな木戸孝允の出発点は、萩なんです♪

「逃げの小五郎」は、実は無用な争いを好まなかっただけ

剣客でありながら、無用な争いはしなかった桂小五郎。そんな姿勢は龍馬との共通点ですね。龍馬は、桂小五郎を「木圭先生」と手紙で親しみを込めて書いています。桂宛ての手紙は9通も残されているそうです。

桂小五郎が生まれた萩の和田家「木戸孝允旧宅」に訪れたら、歴史ドラマや小説などでの活躍以前の、萩での暮らしを想像してみて下さい。今まで沢山の俳優さんが演じてきた桂小五郎こと木戸孝允をNHKドラマ『花燃ゆ』では、東山紀之さんが演じます。それも楽しみですよね。大河ドラマで沸いている活気ある萩市に是非お出かけくださいね。

掲載内容は執筆時点のものです。 2014/10/26 訪問

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