坂本龍馬の明治維新構想への影響大!横井小楠の故郷・熊本へ

坂本龍馬の明治維新構想への影響大!横井小楠の故郷・熊本へ

更新日:2015/01/16 14:13

村井 マヤのプロフィール写真 村井 マヤ 中国・九州文化的街並探検家
熊本城や水前寺公園、美しい観光地に恵まれた熊本市。熊本は、熊本城を中心として栄えた城下町の面影ある町並みと、夏目漱石旧居跡や小泉八雲旧居跡なども残る文学的風土もある町です。そんな熊本は、偉大な歴史的人物の故郷でもあります。その卓越した聡明な思想で、熊本藩から福井藩の松平春嶽に招かれ、藩政改革を行いました。彼が、熊本で開いた私塾「四時軒」には、坂本龍馬も訪問。
さあ!稀代の秀才横井小楠の故郷熊本へ。

横井小楠の私塾「四時軒」は、熊本藩の実学を担った

横井小楠の私塾「四時軒」は、熊本藩の実学を担った

写真:村井 マヤ

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横井小楠(1809-1869)は、幕末に吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬らから、先生と呼ばれ尊敬された人物。その儒教思想に基づいた開国論者としての優れた思想は、勝海舟には「途方もない聡明な人」、龍馬からは「すぐれた人物」と評されました。龍馬よりかなり年上ですが、龍馬が海舟の命で福井藩を訪ねた折、のちの由利公正こと三岡八郎や横井小楠とは友好を深めたそうです。龍馬は、横井小楠を死ぬまで尊敬していたと言います。大河ドラマ『龍馬伝』の中で龍馬が理想とした「新しい世の中」の礎となった思想にも深く影響を与えた人物だったのです。

横井小楠の生い立ちなどは、ここでは詳しく述べませんが、31歳から江戸遊学や諸国視察の旅にも出ました。46歳の時に兄が死去して、横井家の当主になります。47歳の時に、沼山津(現在の熊本市東区沼山津)に開いた塾が「四時軒」です。実は、小楠はこれ以前、39歳の時に小楠堂という塾を相撲町(現在の熊本市下通1丁目)に開きました。この小楠堂には、吉田松陰も訪ねています。小楠堂は残念ながら駐車場になっていまして、小楠堂跡の碑が立っているだけです。

写真は、「四時軒」を秋津川方面から撮影したもの。

◆横井小楠記念館・四時軒へのアクセス
産交バス 秋津薬局前下車 徒歩10分
産交バス 小楠記念館入口 徒歩8分
市営バス 秋津小楠記念館前下車 徒歩3分

坂本龍馬も訪れ、小楠と激論を交わす

坂本龍馬も訪れ、小楠と激論を交わす

写真:村井 マヤ

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横井小楠と坂本龍馬の出会いは、江戸、福井、そして熊本(ここ四時軒で3回)です。ときに2人は意見を違えて激論を交わしたこともあるそうです。龍馬が勝海舟の使いとして、福井の松平春嶽の下にいた横井小楠を訪ね意気投合したこともありました。龍馬はそこで横井小楠のほかに、のちの由利公正こと三岡八郎とも出会いました。3人は意気投合したと言います。年代も違う3人ですが、新しい世の中について熱く語り合ったのではないでしょうか・・。

さて、坂本龍馬が最初に四時軒を訪れたのは元治元(1864)年2月のことでした、2度目は4月。勝海舟が幕命で長崎へ行く途中に龍馬を四時軒に遣わしたのです。その時の様子を横井小楠の義理の甥で、また小楠の高弟徳富一敬の息子でもある徳富蘆花や龍馬側の資料がありますが、はっきりとしたことは分かりません。小楠は開国を主張しており、外国に攘夷を実行した長州藩を「罪」であると非難する書状も残っていますので、このあたりが大激論の原因かも知れません。それでも、龍馬は兄への手紙で、横井小楠のことを「当時、天下の人物9名」の中に連ねて一目置いていたことは確かだったようです。

写真は、当時龍馬が訪れたのではないかと思われる四時軒の座敷です。美しい風景を眺められ、「春夏秋冬の四季の景色はすべて家から望むことができる」ことから小楠が名付けた「四時軒」の名の通りの場所です。

小楠が刺客に襲われ抵抗した短刀も〜生々しい刃こぼれも残る

小楠が刺客に襲われ抵抗した短刀も〜生々しい刃こぼれも残る

写真:村井 マヤ

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横井小楠は、新政府の参与となって8か月後の明治2(1869)年正月に暗殺されました。場所は、京都禁裏(皇居)公卿門より退出して、内裏(現・京都御苑)寺町門を出て寺町通りを南下し、丸太町通りと交差点を過ぎ、さらに下御霊神社を過ぎたあたりだったようです。寺町通脇には「横井小楠殉節の地」という碑が立っています。

小楠を暗殺した実行犯は6人で、その黒幕が7人いたと言われています。「横井小楠記念館」には、暗殺者たちに小楠が抵抗した短刀やその際着用していた羽織などが残っています。展示されている短刀には、刃こぼれがあり襲撃のすさまじさを実感させられます。
小楠は居合抜きの達人でしたが、襲撃されたとき61歳で、病気がちだったこともあり、抵抗むなしく力尽きたのです。小楠の首級は、暗殺者の一人によってあげられましたが、幸い小楠の首は、横井小楠の宿舎の門人によって取り戻されたといいます。なんともおぞましい話ですが、当時の京都は殺伐としていたのですね・・。

暗殺の動機は、政府のキリスト教政策への誤解と横井小楠がその政策の中心人物と目されたことでした。実際は、そうではなかったのですが、それだけ横井小楠が目立っていたのでしょう。

「横井小楠記念館」には小楠が、アメリカ留学する甥の左平太、大平に送った漢詩『送別の語』が残っています。かいつまんで言うと、東洋の思想と西洋の技術を統一することが理想的政治といったところ。小楠は、儒教を根底に据えた思想家でした。小楠の素晴らしい点は、日本が単に富国強兵で終わるのではなく、日本人が正義人道を先頭に立って世界に広めなければならないとも『送別の語』で語っているところ。こうした小楠の遺志は、弟子たちに受け継がれました。

横井小楠誕生の地へ〜清正公井(せいしょこい)も

横井小楠誕生の地へ〜清正公井(せいしょこい)も

写真:村井 マヤ

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素晴らしい思想と頭脳の持ち主だった横井小楠は、文化6(1809)年8月13日、家禄150石の肥後藩士横井大平時直の次男として生まれました。熊本城下の内坪井で、中級武士の武家屋敷が立ち並ぶ地域でした。小楠生誕地は、現在は熊本中央高等学校の敷地になっています。「横井小楠生誕地」という碑が門のあたりひっそりとあるのみです。また、門の左側を学校の塀沿いに歩いていますと、「清正公井」という井戸があります。小楠が生まれた時の産湯もこの井戸の水と伝わっています。井戸自体は、当時の下級武士の家庭で使われていた井戸の形式で復元されたものです。

この横井小楠生誕地の近くには、「夏目漱石内坪井旧居」や吉田松陰の友人として一緒に東北を旅した「宮部鼎蔵(ていぞう)旧居跡」もあるので足を延ばしてみましょう。詳しくは下記MEMOを参照して下さい。

熊本城を背景に、高橋公園に建てられた「維新群像」

熊本城を背景に、高橋公園に建てられた「維新群像」

写真:村井 マヤ

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6人の刺客に襲われ命を落とした横井小楠の遺志は、弟子に引き継がれました。熊本藩知事になった細川護久(1839-93、第12代熊本藩主細川斉護の子、13代藩主の弟)が行った藩政改革によって、小楠門下の「実学党」メンバーが活躍し成果をあげたのもその一例。また、越前福井で小楠の教えを受けた由利公正は新政府で「太政官札」を発行し、財政改革に手腕を発揮しました。

写真の「維新群像」は、2000年に小楠生誕190年、没後130年の記念に建てられたもの。像は向かって左から坂本龍馬、勝海舟、小楠、松平春嶽、細川護久で、台座のレリーフは弟子たち。その中には、熊本藩の改革に活躍した竹崎律次郎や嘉悦氏房や徳富蘇峰・蘆花兄弟の父徳富一敬もいます。ちなみに、横井小楠の後妻は徳富一敬の妻久子の妹つせ子です。徳富蘇峰・蘆花の旧居跡も熊本市にあります。下記MEMOを参照にして下さいね。

勝海舟が怖いと評した西郷隆盛と横井小楠

文久元(1861)年8月11日、江戸福井藩邸で横井小楠と勝海舟は初めて出会いました。海舟は、類まれな才能を「おれは今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲(隆盛)とだ。横井は、・・その思想の高調子な事はおれなどは、とても梯子を掛けても、及ばぬと思った事がしばしばあったよ」と『氷川清話』で語っています。小楠はそのほかにも、幕府への建白書『国是七条』を書き一橋慶喜とも意見を交わしたそうです。

そんな横井小楠が生まれた熊本に出かけて、是非彼の功績を史跡めぐりをしながら学びませんか?
幕末の才能あふれる思想家の英知を賜るかも知れませんよ・・。

掲載内容は執筆時点のものです。 2014/12/26 訪問

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