軍師・黒田官兵衛に会いに行こう!福岡市黒田家墓所へ

軍師・黒田官兵衛に会いに行こう!福岡市黒田家墓所へ

更新日:2015/01/13 14:00

村井 マヤのプロフィール写真 村井 マヤ 中国・九州文化的街並探検家
商人の町「博多」と城下町「福岡」二つの顔を持った福岡市は、九州一の大都会でもあり、歴史ある港湾都市です。中世には、大商人たちが合議制で治めた日本史上初の自治都市として栄えた町。かの石見銀山の発見をした神屋寿禎は、博多商人でした。活気あるこの福岡を江戸時代より治めたのが、黒田官兵衛藩祖の黒田藩。
平成26年NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』ゆかりの城下町福岡へ、官兵衛の思い出旅に出かけませんか?

福岡城から移築された山門が見事な黒田家菩提寺・崇福寺

福岡城から移築された山門が見事な黒田家菩提寺・崇福寺

写真:村井 マヤ

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写真の立派な門は、福岡城の本丸表御門だったもの。大正7年に陸軍より払い下げられて崇福寺の山門として移築されたものです。

この大変立派な門を持つ崇福寺(そうふくじ)は、博多区千代の福岡県庁の近くにあります。官兵衛の最後の城・福岡城からは少し離れていますが、博多駅からですと近いので、博多駅を拠点に動かれると便利です。博多の観光は、地下鉄も便利ですが、バスの旅も美しい博多の町を見ることができ、また経済的なんですよ。時間があるときはバスの移動をおススメします。

さて、黒田官兵衛は、天文15(1546)年11月29日(12月22日)、黒田職隆の嫡男として播磨国の姫路に生まれました。当時は小寺氏に仕えており大名ではありませんでしたが、豊臣秀吉や織田信長との出会いによって運命が大きく変わったことは、NHKの大河ドラマ『軍師官兵衛』をご覧になった方はご存知でしょう。

この崇福寺は、福岡県福岡市博多区にある臨済宗大徳寺派の寺院。仁治元(1240)年、湛慧が大宰府横岳に創建。翌年宋から帰国した聖一国師(円爾弁円)が招かれ開堂説法。文永9(1272)年に大応国師(南浦紹明)が入寺し開山となりました。高僧を輩出した寺院でもあります。

福岡藩主黒田家の菩提寺でもあり、かつては寺域も広大で海岸の千代の松原まで続き、壮麗な伽藍だったのが福岡大空襲によりほぼ灰燼に帰したそうです。そのせいでしょうか、後でご紹介する官兵衛の石塔も焼かれたような跡が残っています。戦争の爪痕ですね。

その大きさにびっくり!!迫力満点の黒田家墓所

その大きさにびっくり!!迫力満点の黒田家墓所

写真:村井 マヤ

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実は、この崇福寺の墓所内には、もともと20数基の石塔が建っており、規模も現在の5倍もあったそうです。戦災で焼失し、痛みの激しいものなどがあり、昭和25年に主だった石塔以外を改装、合祀し現在の12基に縮小されました。昔の配置図などを見ると、黒田官兵衛の石塔を中心にまわりを囲むように他の石塔が配置されていました。

さて、崇福寺には黒田官兵衛や妻の光、長政、弟の熊之助をはじめ、4代、6代、7代、9代、10代藩主の墓碑があります。藤水門で仕切られ、一郭が黒田家の墓所になっています。なお、2代、3代、8代藩主の墓所は福岡市東長寺、11代藩主以後は東京青山の墓所に葬られています。後にまた再整備され、門(藤水門)、案内看板などが新しく設置されました。長政の墓碑も作り直されたようです。

崇福寺には、名島城(博多湾に突き出た丘陵に小早川隆景が築いた城)の唐門などの文化財がありますが、戦前は豪商・神屋宗湛ゆかりの茶室で国宝であった「湛浩庵」(後に宗湛庵として復元)がありました。残念ながら茶室は、空襲で焼失しています。

軍師・官兵衛の石塔は、建設当時の姿を留めた史跡

軍師・官兵衛の石塔は、建設当時の姿を留めた史跡

写真:村井 マヤ

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官兵衛の墓石でもある石塔は、景轍玄蘇(けいてつげんそ1537-1611:聖福寺第109世、外交僧として豊臣、徳川時代を通して朝鮮外交を行う)の撰文が刻まれ、建碑当初のものとして、貴重です。NHKドラマで官兵衛の生涯に感動した歴史好きな方が訪れ、官兵衛の墓碑に刻まれた文章を見入る姿も・・。

一般的に黒田官兵衛と呼ばれ、如水(出家後)としても知られていますが、正式には黒田孝高(くろだよしたか)を名乗っていたようです。キリシタン大名でもありました。官兵衛は、慶長9(1604)年京都伏見藩邸で59年の生涯を終えました。遺言で、亡骸は博多の神父の所へ運ばれ、宣教師による儀式が行われ埋葬されたそうです。長政は、その後仏式の葬儀も行ったとのことです。息子長政は、京都の臨済宗大徳寺に父を弔うために塔頭、龍光院を建立し、法要も行いました。 

福岡の町は、天正15(1587)年に豊臣秀吉による博多の太閤町割も行われ整えられました。関ヶ原合戦後、官兵衛、長政親子は黒田家ゆかりの備前福岡(岡山県)の「福岡」という名をこの地につけました。

官兵衛が晩年を過ごした福岡の地で、しばし偉大なる軍師の生涯に思いを馳せてみましょう。

長政の石塔の隣には、若くして亡くなった次男熊之助の墓も・・

長政の石塔の隣には、若くして亡くなった次男熊之助の墓も・・

写真:村井 マヤ

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ドラマ『軍師官兵衛』はをご覧になった方はご存知でしょうが、官兵衛には長政のほかにもう一人息子がいました。熊之助という名前で、長政とは15歳も年の離れた兄弟でした。
大切に育てられた熊之助でしたが、慶長2(1597)年当時、朝鮮出兵(慶長の役)に参加していた父・官兵衛、兄・長政を見舞うために豊後・中津城から船で朝鮮半島へと向かいます。この航行には母里太兵衛の嫡男・母里吉太夫などが従ったと言われています。ドラマでは、初陣を飾りたがった熊之助が、こっそり朝鮮行の船に乗ったことになっていましたね。

ところが、熊之助が乗った船は、玄界灘で暴風に見舞われ、沈没してしまいました。その時熊之助は、わずか16歳だったということ。熊之助の墓石は、長政と官兵衛の間にあります。写真では、向かって右側、黒っぽく見える墓。なんだか二人に見守られているかのよう・・。

愛妻・光のお墓も、官兵衛に寄り添うように♪

愛妻・光のお墓も、官兵衛に寄り添うように♪

写真:村井 マヤ

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官兵衛は、生涯側室を持ちませんでした。ただ一人光(てる)のみを妻として仲睦まじく暮らしたのです。

官兵衛が隠居所とした場所も福岡城のすぐ近くにありますので、是非行かれると良いでしょう。
大きな官兵衛の石塔の隣にひっそりと寄り添うように立っているお墓がなんだか愛らしいですよね。

崇福寺へのアクセスは下記MEMOを参考にして下さい。

城下町「福岡」と商人の町「博多」の双子都市

同じ福岡市ですが、「福岡」と「博多」とは那珂川を挟んで発展してきた城下町と商人の町です。「博多」という地名は奈良時代から登場する古い地名。前述しましたが、「福岡」は関ヶ原以降の城下町の地名なんですよ。博多の方が歴史があるため、一時は「博多市」になりかけたこともあったそうです。

そういえば、陸の玄関口は「博多駅」で空の玄関口は「福岡空港」となっていて九州以外にお住まいの方には??ですよね・・。それだけ歴史のある町なんでしょう。

黒田家墓所の見学をされたい方は、「まち歩きツアー」に事前(7日前までに)に電話かファックスで申し込みをして下さい。こちらに申し込まれますと、知識豊富なガイドさんと一緒に福岡の観光ができます。時間は2時間くらいで、お1人様からでも申し込みOK(有料)!

*黒田家墓所の見学方法・・(平成27年1月5日より変更)詳しくは、下記MEMO「福岡藩主黒田家墓所の見学方法が変更されます。/トピックス/福岡県観光情報 クロスロードふくおか」をご覧ください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2014/12/25 訪問

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