南部戦線を辿るおとなの修学旅行〜沖縄本島南部〜

南部戦線を辿るおとなの修学旅行〜沖縄本島南部〜

更新日:2014/12/22 15:01

太平洋戦争のなかで、沖縄本島に上陸した米軍と日本軍による地上戦を「沖縄戦」と呼びます。さらに、沖縄戦の中で那覇から本島南部に撤退する日本軍と、沖縄本島の占領を目指した米軍による住民を巻き込んだ激戦を「南部戦線」と呼びます。
沖縄戦では、県民の4分の1にあたる約15万人前後が犠牲者となりました。沖縄県民に重くのしかかる過去の歴史、沖縄戦・南部戦線は同じ日本人として共有すべき事実だと思うのです。

スタートは、世界遺産・首里城のそば「第32軍司令部壕」

スタートは、世界遺産・首里城のそば「第32軍司令部壕」
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沖縄旅行に来た観光客の大半が訪れる首里城ですが、沖縄戦を偲ぶ貴重な戦跡は城の地下にあります。首里城の地下に日本軍の拠点となる長大な壕が掘られており、ここに南西諸島の防衛強化という使命を帯びた第32軍の司令部が置かれていました。米軍による首里城の攻撃もこの壕を狙ったものとされています。

壕への入口6か所のうち現在、残っているのは南側の1か所のみ。この奥に1000名以上が詰めていたそうです。守礼門をくぐり首里城入口に続く道を左に折れて、石段を降りた場所にひっそりと口を開けています。ほとんどの旅行ガイドの地図には記載がありません。案内板には第32軍司令部の南部撤退について説明されており、「沖縄を『捨て石』にした」という言葉が心を突き刺します。(見学自由)

沖縄県民の涙を誘う大田少将の最期「旧海軍司令部壕」

沖縄県民の涙を誘う大田少将の最期「旧海軍司令部壕」
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第32軍は司令部壕の放棄を決定し、持久戦に持ち込むため、未だ米軍の侵攻が難航している南部へと撤退しました。しかし、海軍は退路を断たれて第32軍とともに撤退することが叶わず米海兵隊により全滅しました。(海軍は撤退を潔しとはせず、徹底抗戦による玉砕を選択したという説もあります)

旧海軍司令部壕は那覇市と豊見城市にまたがって存在し、那覇空港から車で南西に15分ほどの場所に位置します。かまぼこ型に掘り抜いた横穴をコンクリートと杭木で固めたもので、収容されていた人数は約4000名。当時、450メートルの長さであったとされています。そのうちの300メートルが復元公開され、旧海軍の資料を展示する資料館も同時オープンしています。

ここで知られているのが司令官・大田實少将の行動です。大田少将は、沖縄県民が献身的に作戦に協力してくれたことを長文で訴え、
「沖縄縣民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
と結んだ電報を打ち、戦い利あらずと5名の参謀とともに壕内の司令官室で自決しました。
海軍の戦いぶりには米軍も舌を巻き、沖縄県民の姿を伝えた電報は沖縄県民が日本軍に非協力的であった噂を払拭しました。

「疾風に勁草を知る」という言葉がありますが、強い信念と優しさを持った人物を浮かび上がらせるのも戦争の側面なのかもしれません。

料金 440円
営業 8時30分〜17時
休日 年中無休

戦場に散った少女たち「ひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館」

戦場に散った少女たち「ひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館」
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県立第一高等女学校と沖縄師範学校女子部の生徒たちで編成された従軍看護隊を「ひめゆり学徒隊」と呼びます。米軍の沖縄上陸作戦が始まった頃に那覇市南東、南風原(はえばる)の沖縄陸軍病院に配属されました。少女たちは赤十字の旗印の下、設備の整った施設での看護を想像し、身なりを整えるための櫛や、顔ふきタオル、日々を綴るための日記帳などを持参しましたが、現実は想像を絶するものでした。

設備は不十分、米軍の南下に伴って運ばれてくる負傷兵が激増し、看護、水汲み、死体埋葬に追われ、仮眠さえも取れませんでした。
2か月ほど経つと陸軍病院から南部へ移動することになり、学徒隊にも犠牲者が増え、6月18日の解散命令により洞窟から砲弾の飛び交う地上に放り出されると学徒隊の100名以上が命を落としました。ひめゆり平和祈念資料館では、ひめゆり学徒隊の顛末を詳しく紹介しています。

また、ひめゆり学徒隊とその職員たち217名を合祀しているひめゆりの塔手前には、沖縄陸軍病院第三外科壕跡があります。ここは壕から脱出する直前に洞口にガス弾がぶち込まれ、阿鼻叫喚の有様だった場所です。

料金 入館310円
営業 9〜17時
休日 年中無休

沖縄本島最南端の美しき戦跡「喜屋武岬」

沖縄本島最南端の美しき戦跡「喜屋武岬」
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糸満市街からひめゆりの塔や、平和祈念公園を結ぶ国道331号を途中で離れて入り組む細い道を南進すると、白い灯台がそびえる喜屋武岬にたどり着きます。展望台からは高さ30メートルの断崖絶壁の続く光景が見られます。

地理的にも重要な場所で、喜屋武岬より西側が東シナ海、東側が太平洋に分けられるのです。展望台のそばには、平和の塔というモニュメントが立っています。そこには、
「第六二師団管下部隊は喜屋武複廓陣地において摩文仁の第三二軍司令部向け侵攻を続ける米軍に対し最後の迎撃を続けしが善戦空しく昭和二十年六月二十日玉砕せり」
「昭和二十七年十月地元民は将兵並びに戦いに協力も散華せる住民の遺骨併せて一万柱を奉納し…」と書かれています。

6月20日には米軍も摩文仁と喜屋武の占領を残すのみとなっており、すでに逃げ場はありません。摩文仁の第32軍とともに、喜屋武の第62師団も米軍に完全包囲されていました。この日から3日後に第32軍は崩壊し、米軍による沖縄本島の占領が完了します。
そして、摩文仁の丘が現在の平和祈念公園となっているのです。

断崖に打ち付ける白波と穏やかな海が平和のありがたみをひしひしと痛感させてくれます。(見学自由)

時系列通りにめぐれば、感慨もひとしおです

南部戦線は那覇から南へ南へと戦場を移していった戦争なので、南から順番にめぐれば必然的に時系列通りに辿ることができます。
3か所で物足りなければ、旧海軍司令部壕の後に、ひめゆり学徒隊も配属された沖縄陸軍病院の壕がそばに残る「南風原文化センター」、喜屋武岬の後に、20万人以上の戦没者を祀り恒久平和の願いを発信している「平和祈念公園」に訪れるのもおすすめです。

沖縄で貴重なのは海の美しさばかりではありません。史跡巡りに興じる沖縄旅も必ずや印象に残るものとなるでしょう。

ただし、霊感のある方は控えるべきかもしれません。

掲載内容は執筆時点のものです。

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