大河ドラマ「花燃ゆ」のロケ地〜毛利輝元渾身の城・萩城!

大河ドラマ「花燃ゆ」のロケ地〜毛利輝元渾身の城・萩城!

更新日:2018/10/26 14:11

村井 マヤのプロフィール写真 村井 マヤ 中国・九州文化的街並探検家
長州藩のシンボルでもある萩城は、慶長9(1604)年に毛利輝元が指月山麓に築城した城です。周囲には、旧厚狭毛利家萩屋敷長屋や、天樹院墓所、旧福原家萩屋敷門など上級武士の屋敷が立ち並んでおり、「鍵曲(かいまがり)」と呼ばれる城下町独特の街路も見ることができます。上品な佇まいの通りの向こうに、指月山を背に城跡が見えてきます。「花燃ゆ」のロケ地でもあり、海と山の風景を楽しめる美しい萩城を歩きませんか?

別名指月城と呼ばれ、五層白亜の天守閣もあった平山城

別名指月城と呼ばれ、五層白亜の天守閣もあった平山城

写真:村井 マヤ

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萩城には、明治7(1874)年に解体されるまで、高さ14.4m、下層は東西19.8m、南北16.2m、五層の白亜の天守閣がありました。城下町散策の途中で、あちこちの施設で解体前の萩城の写真などを見ることができるでしょう。立派な天守閣で、最上階は高欄をめぐらした桃山期の形式です。

毛利輝元が、長門・周防2国に移封され慶長9(1604)年から慶長13年にかけて築いた城です。指月山の山麓に本丸を築いたことから指月城とも呼ばれます。
江戸時代に築かれた城ですが、背後の指月山に詰の丸を配し、戦時を意識した構えでした。

扇の勾配が美しい天守台石垣!在りし日の姿も想像してみて

扇の勾配が美しい天守台石垣!在りし日の姿も想像してみて

写真:村井 マヤ

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現在萩城の遺構として残っているものは、天守台、詰丸・本丸・二の丸の石垣と内堀、溜池跡、など。

写真は、本丸門のあたりから天守台(一番奥)を撮影したもの。内堀に突き出して築かれており、高石垣の扇の勾配が美しい!ここに五層の望楼型天守が建っていたのを想像してみて下さいね。

在りし日の姿を想像しながら歩くことは、こうした歴史的遺構を見るときの楽しみ方の1つ♪もしかして・・ここにお殿様が・・など、いろんなことを想像すると楽しくなります。

幕末・藩主と家臣たちが国事の相談をした茶室・花江茶亭

幕末・藩主と家臣たちが国事の相談をした茶室・花江茶亭

写真:村井 マヤ

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萩城は、本丸門から入城します。順路を示す案内板がありますので、それにしたがって歩くと城内を効率よく巡ることができます。

最初に天守台を巡るよう誘導されています。順路に従い、最初に天守台を目指して石の階段を登ってみましょう!・・・
天守閣跡には礎石などが残っています。天守閣跡から、背後にある標高143mの指月山を間近に見る事ができ、麓まで石垣が築かれている様子も見受けられます。

本丸跡は、指月公園とも呼ばれ、四季折々の風景を楽しめる美しい公園になっています。
公園内には、もともとは藩主の別邸にあったのですが、明治20年ごろに城内に移築した「花江茶亭」という茶室があります。
ここでは、13代藩主毛利敬親(たかちか)が家臣たちと時勢を論じたり、国事を画策したと言われています。

毛利敬親(1836-1869)は、「そうせい候」とも呼ばれていました。敬親はまた、11歳下の吉田松陰に兵学も学んでいました。二人の出会いは、松陰が11歳ころ萩城に招かれ講義をしたときでした。
11歳で講義ってすごくないですか?!今の小学校5年生くらいですよね?
11歳の松陰の講義を聞いた敬親は、その秀才ぶりに大変感心したと言われています。自分より11歳も若い松陰の門下になることを決めたそうです。逸話によると松陰の講義は眠くなく、膝を乗り出して聞きたくなるものだったとか・・。若いころから素晴らしい教師だったのですね。

後に松陰が投獄され、藩政を批判した内容の文を送ってきたときも、「寅次郎(松陰)の心を慰めてやらねばならぬ。思うことをすべて書かせ、余に見せるように。・・」と言ったとのこと。松陰への信頼が厚かった証ですよね。素晴らしい考えや才能を見抜く力がある、お殿様だったのでしょう。敬親は、若い人を登用し積極的に藩政に関わらせ、政治姿勢としては家臣の意見に対して異議を唱えず常に「うん、そうせい」と言っていたとか。そこから「そうせい候」と呼ばれたそうです。

花江茶亭では、どんなお話をしていたのでしょうか・・。

「花燃ゆ」のロケも行われた「志都岐山神社」の万歳橋

「花燃ゆ」のロケも行われた「志都岐山神社」の万歳橋

写真:村井 マヤ

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NHK大河ドラマ「花燃ゆ」のロケも行われた志都岐山神社。志都岐山神社前にかかる万歳橋は、嘉永2(1849)年に江向に建てられた藩校明倫館にあったものです。明倫館については、下記MEMO「坂本龍馬も剣術試合をした?!山口県萩市・旧萩藩校明倫館へ」に詳しく紹介しています。

万歳橋のたもとにある桜は「ミドリヨシノ」とよばれ、がくが緑色の珍しいもの。学術的には、代表的な桜のソメイヨシノの変種とのこと。がくが緑色であることからミドリヨシノと名付けられました。この桜は、七代藩主が参勤交代の折りにどこからか持ち帰ったとも伝わっています。萩市以外では見つかっていないらしく、萩市にのみ存在する桜として貴重な品種。白い花を咲かせ、まるで梨の花のよう・・。桜の季節に訪れて、珍しい花を眺めるのも素敵ですね♪

そこはもう海・・復元された銃眼土塀の白壁が美しい

そこはもう海・・復元された銃眼土塀の白壁が美しい

写真:村井 マヤ

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写真は、日本海に面した土塀の上から撮影しています。白く見える部分は「銃眼土塀」と呼ばれる鉄砲を撃つために開けた四角い穴のある土塀です。昭和40年に一部復元されたものです。
銃眼土塀の左側(写真では白壁の右奥のくぼんだ部分)が、潮入門(しおいりもん)跡で江戸時代には城に船で出入りの際利用した門です。
「花燃ゆ」のロケが行われたのは、潮入門から菊ヶ浜にかけての一帯で小浜(こはま)と呼ばれる場所。

この浜を見ると、本当に海の側なんだなと実感がわきますよ。

毛利輝元が築いた萩城!最後の気骨が幕末への布石

関ヶ原を傍観し、戦わずに負けた輝元。家康によって指定された地に築城した萩城。江戸時代、毛利家の戦いは、ずっと続いていたのかも知れませんね・・平時なのに戦時のような城構えの城はその表れだったのでしょうか・・。これも想像ですが、そんなことを考えながら歩くと、面白いかも知れませんね・・。

歴史の宝箱・萩へ出かけましょう!忘れられない素敵な出会いがあるかも〜♪

掲載内容は執筆時点のものです。 2014/10/26 訪問

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