長州藩の始祖・毛利輝元の墓参〜「花燃ゆ」の舞台山口県萩市へ

長州藩の始祖・毛利輝元の墓参〜「花燃ゆ」の舞台山口県萩市へ

更新日:2014/12/06 10:27

村井 マヤのプロフィール写真 村井 マヤ 中国・九州文化的街並探検家
関ヶ原の合戦で、西軍の総大将になった毛利輝元(1553-1625)。その輝元のお墓が、萩城近くにあります。大河ドラマ「花燃ゆ」の舞台・萩城下町散策の際、藩祖・輝元公の墓参も是非おススメ!関ヶ原の合戦から討幕に至るまで毛利家の役割は大きいのです。毛利家が関ヶ原で敗れ、元就以降の領土安芸から萩へ移り長州藩が誕生し、多くの幕末の志士を育んだのですから。歴史のキーパーソン藩祖輝元に会いに行きませんか・・。

苦難のなかに誕生した長州藩、萩の屋敷で亡くなった輝元

苦難のなかに誕生した長州藩、萩の屋敷で亡くなった輝元

写真:村井 マヤ

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関ヶ原合戦の後、かろうじて取り潰しを免れた毛利本家。関ヶ原合戦の際、密かに徳川家康の東軍と密通していた吉川広家(1561-1625:毛利元就の次男吉川元春の3男。毛利輝元の従兄)が傍観を決め込み、広家の後ろに陣取っていた毛利秀元(1579-1650:毛利元就4男、穂井田元清の長男で長門長府藩主)は、動きが取れず結果的に傍観することになりました。したがって、吉川広家、毛利秀元の傍観が東軍の戦いをスムーズにし、勝利に導いてしまったのです。
毛利輝元は、もちろん東軍と密通をしていなかったし、毛利家の外交僧であり、秀吉時代には秀吉の近臣でもあった安国寺恵瓊(1539?-1600)とともに豊臣家への忠義を貫いたのです。

毛利輝元に対する歴史的評価や、六条河原で打ち首にあった安国寺恵瓊の人物評価のほどは分かりませんが、毛利元就の「天下を競望するな」という言葉は輝元は痛いほどわかっていたはずです。あくまでも豊臣政権下における五大老としての役割を果たしたまで・・。

朝鮮出兵の際の記録によると、輝元は人格者としての一面も覗かせています。また、叔父の小早川隆景には随分厳しいしつけも受けたようです。関ヶ原合戦後の徳川家康の敵軍の処罰に際して、吉川広家にかろうじて助けられたことについても、「近頃の世は万事逆さまで、主君が家臣に助けられるという無様なことになっている」と自らの非力を嘆いたそうです。ある意味、潔い性格の人だったのでしょうね。

そんな、輝元は寛永2(1625)年4月27日、萩の四本松邸で亡くなりました。享年73(満72歳没)でした。輝元は、長州藩の藩祖ですが、初代藩主としては数えられません。関ヶ原の戦い後の論功により秀就(輝元の長男)を初代とするため。

*写真は、天樹院墓所の門です。

毛利輝元の屋敷だった四本松邸がそのまま墓所天樹院へ

毛利輝元の屋敷だった四本松邸がそのまま墓所天樹院へ

写真:村井 マヤ

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毛利家は、西軍の敗北で危機に直面しました。吉川広家の家康への弁明で、領地は4分の1の周防・長門の2か国へ、石高も120万石から約36万石へと減らされましたが本家は存続。苦難の中に誕生した藩だったといえます。毛利元就という名将を祖父に、毛利両川と言われた吉川元春、小早川隆景という偉大な叔父たちを持った輝元。どんな生涯だったのでしょうね。

元々、輝元の隠居所だった四本松邸が天樹院(写真)という菩提寺になりました。お寺は、明治維新後廃寺になり、今は墓所のみ残っています。

毛利家墓所としては、萩市内にある大照院と東光寺が有名ですが、この天樹院は意外と知られていないようです。堀内地区というお屋敷群の中にあり、お墓というよりお屋敷といった印象で、分かりにくいのかも知れませんね。もと、隠居所だったという墓所はかなり広いんですよ。石灯籠に守られた一番奥にお墓があります。広い敷地内に木々が生い茂りひっそりとしています。

毛利輝元火葬場跡も

毛利輝元火葬場跡も

写真:村井 マヤ

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毛利輝元を火葬した場所も残されています。

遺体は荼毘に付され、屋敷は取り壊されました。輝元を藩祖として敬う一方、神聖な場所にしたかったのでしょうか・・。歴代藩主のお墓とは別格な感じです。

毛利輝元は、毛利元就の長男隆元の嫡男として安芸の国に生まれました。ところが、父親の隆元が永禄6(1563)年に急死し、11歳で家督を継ぎます。隆元の墓所は、広島県安芸高田市の菩提寺常栄寺跡の境内にあります。吉田松陰は、その著『常栄公伝』(「常栄公」とは隆元のこと)で「素行は端正で、敵に臨んで勇決する、仁孝に篤き良将であった。その生涯は、まさに平重盛の如く」と述べ、思慮深い仁将隆元を讃えています。

毛利元就も隆元も、広島県安芸高田市に眠っています。輝元も関ヶ原がなければ、広島県に築城した広島城主(1589年築城、1591年に入城)として生涯を終え、祖父や父親の側に葬られたのかも・・。萩で生涯を終えるとは、輝元は想像もしていなかったでしょう。

殉死した近臣の墓所・・家臣思いの一面も

殉死した近臣の墓所・・家臣思いの一面も

写真:村井 マヤ

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天樹院には毛利輝元夫妻と長井元房という武将の墓もあります。元房はかつて出奔しましたが、輝元に帰参を許され、輝元の死に際して殉死しました。

長井元房が若くして萩を出て、放浪の旅に出ていたそうです。その間も輝元は密かに援助していたようです。萩に戻った元房に対して、輝元は昔同様家臣として遇しました。感動した元房は、輝元への恩義を忘れなかったと言います。そうして輝元の死に際し、忠義を貫いた最期を遂げたのです。

輝元というより毛利家のちょっといい話。「備中高松城の水攻め」で切腹した清水宗治の子孫のお話もここで少しだけ・・。ひとえに、毛利家のため、小早川隆景への忠義のため清水宗治は切腹して果てました。この忠義の武士には、3人の息子がいたそうですが、清水家を継いだのは次男の清水景治でした。景治は、父亡き後、小早川隆景に仕え、名前も隆景の「景」の一字と屋敷も与えられたそうです。隆景の死後は、輝元に仕え、太刀一振りを賜りました。萩に移った後、父以来の功績によって一門家老に次ぐ寄組士の席に列し、財政難に直面した藩のために功績をあげ、長州藩を支え続けたのです。

萩城下町散策で、各歴史的施設などをご覧の際、萩城下の古地図などを是非見て下さい。お城近くの上級武士の屋敷が居並ぶ中に「清水清太郎」という名前を見つけることができるでしょう。この方は、幕末「禁門の変」で責任を取って自害した長州藩家老です。清太郎は、清水宗治の子孫。清太郎の死後、父の清水親春が再度家督を継ぎ、明治維新で活躍し、男爵の爵位を与えられました。

萩市観光課課長代理の「萩にゃん」のモデル忠義の猫

毛利輝元の家臣で、殉死した長井元房には、かわいがっていた猫がいました。
元房が輝元の後を追って殉死すると、その猫は、主人の墓の傍を離れようとせず、四十九日の法要の日に、舌を噛み切って死んでいたといわれています。
哀れに思った僧が、ひそかに葬ってあげたそうです。それから元房の屋敷前を通ると、どこからともなく主人を呼ぶ猫の鳴き声が聞こえてくるようになりました。現在の萩博物館西側の筋が屋敷があった町です。これより「猫町(ねこのちょう)」と呼ぶようになったとのこと。

萩市観光課課長代理の「萩にゃん」。昔から語り継がれている「猫町伝説」の主人公・忠義の猫のよみがえりなんだそうです♪
毛利家紋の肉球バージョン入り陣傘をかぶり、首には鈴の代わりに萩の特産品「夏みかん」をつけ、あこがれの人・高杉晋作が結成した奇兵隊の隊服を着用。萩観光をしていたら出会えるかも・・。
*写真下は、毛利輝元夫妻のお墓。

萩市観光課課長代理の「萩にゃん」のモデル忠義の猫

写真:村井 マヤ

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幕末に討幕を果たす長州藩の礎を築いた輝元公

萩に移った輝元は、どんな思いで生涯を終えたのでしょうか。関ヶ原の合戦の折は47歳。
輝元が亡くなるまで25年余り。諸大名の改易が続く中、毛利家が改易にならぬよう息子の毛利秀就に諭し続けたと言われています。
気苦労の絶えない晩年だったのかも知れません・・。

輝元が築いた長州藩は、関ヶ原の敗北から269年後の戊辰戦争によって、完全に討幕を果たします。なんだか因縁めいてますが、そんな歴史の変遷を思いながら、輝元公の墓参をするとまた違った感動もあるでしょう・・。城下町ばかりではなく是非萩城散策の際に立ち寄って下さいね。

掲載内容は執筆時点のものです。 2014/10/26 訪問

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