大河ドラマ「花燃ゆ」ロケ地とゆかりの地を巡る萩の旅♪

大河ドラマ「花燃ゆ」ロケ地とゆかりの地を巡る萩の旅♪

更新日:2014/11/25 14:55

村井 マヤのプロフィール写真 村井 マヤ 中国・九州文化的街並探検家
NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の舞台である山口県萩市は、城下町として幕末の志士を多く輩出したことで有名な町です。高杉晋作、伊藤博文、木戸孝允、そして吉田松陰ゆかりの土地、沢山の名所や史跡があります。戦火にあわなかったこともあり、城下町の風情を今に残している町並みは素敵です。今回は、NHK大河ドラマ「花燃ゆ」ゆかりの場所やロケ地をご紹介!主人公・文の生家として撮影された場所もありますよ?!

まずは、ヒロイン杉文や兄吉田松陰の生まれた場所へ

まずは、ヒロイン杉文や兄吉田松陰の生まれた場所へ

写真:村井 マヤ

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ドラマのヒロイン杉文(のちの楫取美和子)は、天保14(1843)年に、長州藩士杉百合之助(常道)の4女として、萩城下松本村で生まれました。杉家の家格は、無給通組という下級武士上等で、石高26石の極貧武士でした。農業をしながら生計を立てていたようですが、母親を中心とした明るい家庭だったようです。

兄が2人、姉3人弟1人と7人兄弟の6番目。次兄にのちの吉田松陰がいました。松陰と文は13歳年の離れた兄妹です。文が生まれた時には、松陰はすでに父の弟叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となっていました。
ここで、一緒に暮らしていないのでしょうが、松陰は妹を気遣う手紙などを母親に送ったりしています。

文は安政4(1857)年15歳で、久坂玄瑞と結婚。元治元(1864)年に禁門の変で玄瑞が自害し未亡人となります。玄瑞の死後、彼の遺稿や文に宛てた書簡を「涙袖帖(るいしゅうちょう)」としてまとめたのは、文の姉・寿の夫・楫取素彦でした。玄瑞と暮らした期間はわずか1年くらいだったようです。

写真の場所は高台で、萩城下が見渡せます。建物などは残っていませんが、井戸や間取りを示す敷石などが残って広さも想像できます。ここで、どんな暮らしをしていたのでしょうね・・。

近くに、松陰の墓や杉家、玉木家、久坂玄瑞、吉田家方々、高杉晋作の墓もありますので是非お参りを。

富岡製糸場存続にも尽力した文の2番目の夫・楫取素彦旧宅へ

富岡製糸場存続にも尽力した文の2番目の夫・楫取素彦旧宅へ

写真:村井 マヤ

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楫取素彦(かとり もとひこ:1829-1912)は、意外に知られていませんが平成26年6月に世界遺産に登録された富岡製糸場とも深い関わりがあるのですよ。

それは、彼が明治9(1876)年に群馬県令(1874年に熊谷権令になり、熊谷県改変後新設された)となり、富岡製糸場の運営に尽力し、女工のための教育機関である工女余暇学校の推進しました。官営だった富岡製糸場が時代の変化から、閉場へと向かったとき、官営での経営を強く訴え、富岡製糸場は存続しました。実は、閉場に伴い、民間に払い下げられる予定でしたが、その規模の大きさから買い手は付かず、正式に閉場、解体への道を歩み始めていたからです。

官営として存続したことで、後に三井家が払い下げを受け、紆余曲折を経て現在に至り、世界遺産登録となったのです。素晴らしい群馬県の近代遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」は、楫取素彦によって守られたといっても過言ではありませんね。

さて、そんな楫取素彦とはどんな人だったのでしょうか。
楫取素彦は、文政12(1829)年に藩医松島瑞蟠の次男として生まれます。天保11(1840)年に代々儒官の家柄である小田村家の養子へ。その頃は、小田村文平。通称は伊之助。藩校明倫館で学び19歳で司典助役兼助講となりました。

松下村塾とも関わりがあり、松陰投獄後一時塾生の指導もしました。藩主の信頼も厚く藩政のために東奔西走します。明治維新の直前、慶応3(1867)年、藩命で「楫取素彦」へ改名。尊王攘夷運動などへの幕府からの追究を逃れるためだったと言います。先祖が水軍であった由縁より「楫(かじ)を取る」という意から、楫取へ。一説では、藩主毛利敬親(たかちか)の信任厚く「お前は国の楫を取る人間になれ」と言われたとか・・。

「花燃ゆ」のヒロイン文と再婚(最初の妻は松陰の妹寿で文の姉)するのは、明治16(1883)年ですから10年に及んだ群馬県時代のこと。文と再婚した翌年には、元老院議官に転任し、明治20(1887)年には男爵を授けられました。
その後、宮中顧問、貴族院議員などを歴任し、大正元年三田尻(山口県防府市)で亡くなりました。享年84歳でした。

大沢たかおさん演じる楫取素彦、楽しみですよね。

*写真は、楫取素彦旧宅跡地・・撮影当時は駐車場整備の工事中。住宅地にあり日本大学や国学院大学を創立した山田顕義の誕生地の近くです。

松下村塾の創始者は、松陰の叔父・玉木文之進

松下村塾の創始者は、松陰の叔父・玉木文之進

写真:村井 マヤ

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玉木文之進は、吉田松陰の実父・杉百合之助の末弟で、11歳の時に玉木家を継ぎます。27歳の時に藩校明倫館で山鹿流兵学を教授していました。ところが、部下の不始末の責任を負って免職となります。免職となった翌年天保13(1842)年に松本村の自宅に松下村塾を創始します。ここで松陰をスパルタ教育したそうです。

旧宅内の系図を見てびっくり!玉木家と乃木家の意外なつながりも・・。
有名な乃木希典は、長府藩士の子として生まれ、藩校明倫館への入学を目指し萩まで歩いて来たそうです。
乃木家と玉木家は親戚で、希典が父親の許しを得ず家出同然で萩に来たことを、最初は責めたとのこと。ですが結局、玉木家に寄宿して明倫館に通ったそうです。

上記のような興味深いお話も、ボランティアガイドさんから聞けます。楽しく学びながら散策できるのも萩ならでは。みなさんよく勉強されていて、萩への郷土愛が素晴らしい!

「花燃ゆ」のロケ地・旧湯川家屋敷は藍場川の歴史を語る?!

「花燃ゆ」のロケ地・旧湯川家屋敷は藍場川の歴史を語る?!

写真:村井 マヤ

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ドラマでは、この旧湯川家屋敷は、誰の家として撮影されているでしょうか?是非ドラマが始まる前に行って、目に焼きつけておくのもいいのでは。この屋敷は、ロケ地としてだけではなく「ハトバ」を見ることができる貴重な家。お屋敷も広くて綺麗ですよ。

湯川家屋敷があるのは、萩市内を流れる人工の川・藍場川の最上流。武士だった湯川家がこの家に入ったのは明治の初めころで、明治3年に改築を行った記録が残ってます。ボランティアガイドさんのお話ですと、ここは江戸時代には「水守さん」と呼ばれ、水門の守り役の家だったのでは?とのこと。必見は、内部にある「ハトバ」。台所と風呂場のハトバは是非見ましょう!川の水を引き入れ、生活用水として利用していた様子が分かりますよ。

恐らく、ドラマでもこの内部の様子が出てくるのでは?これは予想ですが・・。また外観の様子も、目に焼き付けて。幕末風に道路に砂を撒いて撮影したそうです。訪れた場所がテレビに出るとなんだか嬉しくないですか?

毛利輝元築城の萩城 銃眼土塀前のシーンは迫力満点?!

毛利輝元築城の萩城 銃眼土塀前のシーンは迫力満点?!

写真:村井 マヤ

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炎天下の青空の下、海辺で行われた撮影に萩城の銃眼土塀前の広場が使われました。写真の右側には海が広がっています。
大砲のセットなどが置かれ、エキストラも多数出演したというお話・・。どんなシーンなのかお楽しみ♪萩城では、他にも志都岐山神社でも撮影が行われたそうです。

萩城は、関ヶ原の合戦で、西軍の総大将であった毛利輝元が築城したお城。関ヶ原での敗戦によって、長門・周防2国に移封され、慶長9(1604)年に日本海に面した萩に築城を開始したのです。

城下町巡りをしていますと、解体前の天守閣の写真などを各施設でご覧になれますので、目にとめて下さい!立派なお城ですよ。
興味深いのは、古地図など。江戸時代後期の地図ですが、現在の町と重ねてもそれほど変化していないのも驚き!

萩城の見どころは、天守閣跡、花江茶亭、庭園など。城の土塀上から見る日本海も美しいのでご覧くださいね。小早川隆景もそうですが、海の側の城って・・さすが水軍を有していた毛利家ですね。

萩城下はお宝沢山!テーマを決めて楽しみましょう!

萩城下町は、一日ですべてを散策するのは難しい所。テーマや絶対巡りたい場所を決めて効率よく巡りたいもの。
今回の旅のご案内は、ドラマ「花燃ゆ」にテーマを絞り、素晴らしい城下町萩を満喫していただくものです。
近代日本の礎を築いた志士たちの故郷をじっくり楽しむ旅に出かけませんか?

掲載内容は執筆時点のものです。 2014/10/25 訪問

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