山陰の小京都・津和野散策〜知っておきたい、外せないポイント!

山陰の小京都・津和野散策〜知っておきたい、外せないポイント!

更新日:2018/10/26 14:45

村井 マヤのプロフィール写真 村井 マヤ 中国・九州文化的街並探検家
美しい城下町島根県津和野町は、旅人の心を刺激する素晴らしい観光名所が沢山あります。これだけは知っておきたい津和野観光のポイントをご紹介します。知ったかぶりもできる知識もちょっとだけ・・。友人やご家族と津和野観光される際に「あ、そういえばここはね・・。」なんて説明してあげると、「へえ〜物知り」って思われる事柄も少しご紹介します。知っておくと城下町散策をもっと楽しめるかもしれません!さあ津和野を満喫♪

津和野と言ったらやっぱりSLやまぐち号!

津和野と言ったらやっぱりSLやまぐち号!

写真:村井 マヤ

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津和野は、城下町として風情ある町ですが、有名なものがほかにもあります。その一つがSL「やまぐち」号です。貴婦人との異名も持つ美しい機関車なんです。もちろん乗車できますが、乗るのはなかなか大変でしょう・・。なぜなら3月から11月の指定日(土日、祝日)、新山口駅から津和野駅までの区間を1日1往復のみの運転だからです。でも大丈夫!乗られなくても、SLの汽笛の音や美しい姿を見るチャンスはありますよ。

運転時間がきちんと決まっていますので、鉄道ファンの方は、SLを美しくカメラに収めることができるポイントで待ちます。鉄道ファンでなくても、美しいSLの姿は見たいもの・・。汽笛の音が何とも言えず、胸が締め付けられるような感動を覚えるものです。
思わず、SLの車窓などから手を振る人に無心で手を振ってしまうんです・・。なんだか、不思議な興奮を覚えてしまいますよ。

掘割に泳ぐ鯉・・悲恋の城主坂崎出羽守が養殖を奨励

掘割に泳ぐ鯉・・悲恋の城主坂崎出羽守が養殖を奨励

写真:村井 マヤ

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津和野の町歩きのポイントの一つ!掘割に放流された鯉のいる風景。白壁の町に美しい鯉、そして初夏には白や紫の花菖蒲が彩を添えます。

坂崎出羽守が津和野藩主であった期間は、わずか16年でした。千姫事件によって悲恋のイメージが強い藩主ですが、藩政に関しては様々な仕事を成し遂げています。例えば、側溝を多く作ったことで蚊の大量発生が起こることを予想して、鯉の養殖を創始したと伝えられているのです。また、紙の原料であるコウゾの植樹を奨励するなど、のちの津和野藩の基礎を築いたお殿様だったのです。津和野城の改築なども行ったと言われています。

そんな出羽守のお墓が津和野にありますよ。もしお時間があればお出かけください。場所は、覚皇山永明寺です。こちらには出羽守のお墓のほかに森鴎外のお墓もあります。詳しくは下記MEMO津和野観光協会HPを参照のこと。

哲学という言葉を初めて使った啓蒙思想家・西周の旧居

哲学という言葉を初めて使った啓蒙思想家・西周の旧居

写真:村井 マヤ

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津和野町は、有名な文学者・哲学者を生んだ町でもあります。知的なイメージが強いのはそのためなんでしょうか・・。津和野で有名な文学者と言えば、森鴎外ですよね。でももう一人忘れてはならない偉大な学者がいます。それが西周(にし あまね:1829〜1897)です。彼は、代々津和野藩の御典医の家柄に生まれました。父親の西時義(森覚馬)は、同じく津和野藩主亀井家の御典医の家柄であった森高亮の次男として生まれ西家に養子入りします。この森高亮の曾孫が森鴎外です。

西周旧居は、森鴎外旧宅・森鴎外記念館ある通りから、お城のある山側へ川を越えた所にあります。この川を津和野川といい、常盤橋という小さな橋を渡って行けます。この橋は、自転車も通れますので、レンタサイクルを利用の際も便利ですよ。また、津和野川も風情があり良い散策コースです。

西周は、29歳の時津和野藩を脱藩して徳川幕府に仕え、幕命を受けオランダのライデン大学に留学もしています。帰国後、将軍慶喜の側近となりました。

彼は、「哲学」「芸術」「理性」などの訳語を考案しました。その他の活躍としては、明治6(1873)年に近代的啓蒙学術団体である明六社を森有礼を中心として福沢諭吉や津田真道らとともに設立しました。明六社には、学識者だけではなく旧大名や新聞社、旧士族の勝海舟など錚々たるメンバーが参加しました。

日本近代における教育者・啓蒙思想家として生涯活躍し、西洋と東洋の思想を統一して新しい心理学についての体系化を書物として著してもいました。時代をリードした超一流の知識人だったのです。

旧居には、西周がこもって勉強した蔵が残されていますよ。しばし、哲学者になった気分で、見学してみては・・。

無形文化財に指定!津和野の鷺舞、津和野踊り♪

無形文化財に指定!津和野の鷺舞、津和野踊り♪

写真:村井 マヤ

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津和野には、無形文化財に指定された踊りが2つあります。
1つは、「鷺舞(さぎまい)」です。歴史は古く、八坂神社の祇園祭にて奉納されたもので、現在は京都も山口も後を絶ち、津和野でのみ行われている神事です。天文11(1542)年、当時の城主吉見大蔵正頼が大内義興の娘を妻として迎えた際、彼女の疫病除けを祈念し、山口祇園会鷺舞を伝習され始められました。その後しばらく絶えていましたが、正保元(1645)年、亀井茲政公が京都祇園会から改めて伝習させ、今日に至っています。

毎年郷社弥栄神社の祇園祭神事の際行われ、7月20日と27日の2回、街を舞いながら歩きます。踊りを踊る舞方と、囃子方、唄方、行列を守護する人など20人くらいの行列になります。その姿は、少し変わっており、真っ白い鷺を模した被り物をはおり、腕を上に挙げると、ちょうどクジャクのような感じでしょうか・・白い羽を広げるように見えます。(*写真のブロンズ像がお分かりになりますか?鷺舞の像です)

もう1つの無形文化財は、「津和野踊」です。こちらは、亀井新十郎茲矩が津和野藩主になったとき、一緒に伝えたと言われています。槍の名人で尼子の家老亀井家の婿でもあった茲矩は、尼子の猛将山中鹿之助幸盛とは、義理の親子でもありました。というのも、茲矩の妻は、亀井家の娘ですが、山中鹿之助の養女になっていたからです。この踊りは、毎年8月10日の幸盛寺観音の祭りの際踊り始められます。8月15日には、殿町で盛大に踊りの会が催されます。この踊りはいわゆる念仏踊りの一種で、学術的にも注目されている古い踊りです。踊り子の黒頭巾・白装束が、大変印象的で、古雅な囃子に乗せて、ほの暗い街並みでゆったりと踊られます。

一度見学に行かれるのも良いのではないでしょうか・・。

乙女峠のデュエットフォンで、「恋フォン」しませんか?

乙女峠のデュエットフォンで、「恋フォン」しませんか?

写真:村井 マヤ

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乙女峠のマリア聖堂はキリシタン殉教の史跡として知られる場所ですが、その敷地内に、実に面白いものがありますよ!デュエットフォンと言われる受話器が2つある公衆電話です。
この電話は、通話相手を含め、3人同時に会話できるのが特徴です。

1990年、NTTが電話事業100周年を記念して開発、設置されたそうです。津和野町や川崎市、香川県観音寺市などに計4台が現存しているとか・・。この乙女峠は、津和野駅の裏手の山にあり、城下町のある駅前の通りから外れているため、このデュエットフォンの設置で観光客を誘引することも目的だったという説もありますが、乙女峠という可愛い名前のついた場所に相応しいかも知れませんね・・。

この3者通話ができる珍しい電話ボックス「デュエットフォン」。なんでも、恋人や夫婦が同時に受話器をとると絆が深まるといういわれもあるそうですよ!老朽化で故障したままだったみたいですが、みごと復活!愛に満ちた場所で、「恋フォン」も素敵ではありませんか?
話題性があって面白いので、ここからお友達やご家族に電話してみるのもいいのでは、もしお連れの方がいたら3人で会話も・・?!

乙女峠については、下記MEMO「乙女峠マリア聖堂〜島根県津和野のキリシタンの歴史を知る!」で詳しくご紹介しています。

津和野観光はレンタサイクルですいすい行きましょう!

津和野は車での観光も可能ですが、城下町をのんびり歩いたり観光するならレンタサイクルがお勧めです。自転車で、森鴎外記念館まで行くのは結構遠いですが、西周旧居なども散策するなら自転車の方が小回りが利いてよろしいかと・・。またSLを撮影する自分なりのベストポジションを探すのも自転車があると便利です。

津和野は、冬は雪深い町ですが、風情のある町並みですので四季を通して楽しめる町です。是非お出かけ下さいね・・。

その他、津和野観光の参考としては下記MEMO「山陰の天空の城・津和野城跡へ〜行きは揚々、帰りは・・?!」も参考にして下さい。

掲載内容は執筆時点のものです。 2014/10/26 訪問

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