写真:吉川 なお
地図を見るロダン美術館は、パリ7区セーヌ左岸、アンヴァリッドに隣接する閑静な住宅地の一角にあります。1908年から亡くなる1917年までの間、彼がアトリエ兼住居として使っていたビロン邸をそのまま美術館にしたもので、ここが気に入ったロダンが全作品とコレクションを国家に寄贈する代わりに、自らの美術館にと希望して開館されたものです。
もと貴族の館であった建物は内装も美しく、裏手にあるきれいに整備された広い庭園も見どころのひとつです。
ロダンは残念ながら開館を見ずに没しますが、多大な作品とあわせて彼が収集した絵画や古代彫刻のコレクションなどを見ることができます。玄関前の庭には東京上野の国立西洋美術館同様、『考える人』『地獄の門』『カレーの市民』が展示されています。
写真:吉川 なお
地図を見る展示室は1階と2階に16室あり、年代順に展示されています。常設作品のほか、随時企画展も行われています。
館内はまさにロダンワールドで、至近距離で見る本物の迫力、美しさは感動の一言です。写真は有名な「接吻」。ダンテの長文叙事詩「神曲」の中の悲恋をテーマにしたもので、禁断の接吻を交わすふたりの心情までもが伝わってきます。
館内には彫刻だけでなく絵画や版画、デッサンも展示され、彼のマルチな才能にも触れられます。
壁に掛けられている絵画にも注目!美術品の収集家でもあったロダンは、ゴッホの「タンギー爺さん」やモネ、ルノワールの作品も所蔵していて、意外な場所でこれらの名作を見ることができます。
写真:吉川 なお
地図を見る館内の1室は、ロダンの遺言によって、かつての恋人だった彫刻家のカミーユ・クローデルに捧げられています。
カミーユは19歳の時に42歳のロダンの弟子となり、やがて愛し合うようになりますが、ロダンは内縁の妻ローズとも別れられず、以後15年間も複雑な三角関係に悩みます。ロダンにとってカミーユは若さと美貌と才能に満ち溢れた刺激的な存在でしたが、カミーユにとってその関係は徐々に苦悩をもたらすものとなっていきます。作品は常に「ロダンの模倣」と評される葛藤と、妊娠・中絶という出来事が追い打ちをかけ、やがて2人の関係は破綻、ロダンはローズのもとへ帰っていきます。
心を病んだカミーユは40代後半に統合失調症を発症して精神病院に入院。その後30年間にわたって隔離生活を余儀なくされます。終生故郷に帰ることを願いつつも叶わず、生涯確執が消えなかった母、妹とも疎遠になり、唯一親交を保っていた弟ポールにも看取られることなく、1943年に78歳の生涯を閉じました。
精神を病んだカミーユは多くの自作を破壊しましたが、そのうち約90の彫刻、スケッチ、絵画などが現存しています。類まれな才能を持ちながらも、愛情にも仕事にも恵まれなかったカミーユの渾身込めた作品をこの部屋で見ることができます。
写真:吉川 なお
地図を見る中でも、見る人全てを哀愁に誘うのが『分別盛り』という作品です。老いた女性に導かれるように去って行く男性に両膝をついて追いすがる若い女性。まさにロダンとカミーユと内妻ローズの関係を表しています。
男性を連れ去ろうとする女性の形相は老婆そのもの。真ん中の男性は追いすがる若い女性を振り向こうともしません。繊細でありながらも、鬼気迫る迫力もあり、カミーユの心の中にある愛憎がありのままに表現されています。あまりにも切なく、痛々しく、見ているだけで彼女の苦しさが伝わってくる作品です。
詩人であり、外交官として日本にも駐在していた弟ポールは、著書「わが姉カミーユ」の中で、『あの美しく誇り高い女がこんなふうに自分を描いている。嘆願し、屈辱を受け、ひざまずき、裸で。すべては終わった。彼女は私たちの前に、こんな姿で永遠にさらされているのだ。』とこの作品について語っています。
1917年、77歳のロダンは死期の迫った73歳のローズと遂に結婚。その16日後にローズは亡くなり、9ヵ月後にロダンも亡くなりました。ロダンが人生末期に語ったと言われる言葉は『パリに残した、若い方の妻に逢いたい。』だったそうです。
偉大な芸術家を巡るふたりの女性の愛と悲しみ。
ロダン美術館で幸薄い生涯を送ったカミーユの魂の叫びを感じてみませんか。
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(2024/4/26更新)
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