京都の紅葉を埼玉で。山あり谷ありの歴史に彩られた嵐山渓谷

京都の紅葉を埼玉で。山あり谷ありの歴史に彩られた嵐山渓谷

更新日:2014/09/16 14:41

Naoyuki 金井のプロフィール写真 Naoyuki 金井 神社・グルメナビゲーター
紅葉と言えばやはり京都、と思い浮かべる方が多いことでしょうが、その京都の紅葉が、そっくりそのまま埼玉県に存在しています。
埼玉県比企郡嵐山町には「嵐山渓谷」と呼ばれる紅葉の名所があります。但し、ここでは「嵐山」と書いて「らんざん」と読みます。
こうなると何故、埼玉県に嵐山が出現したか不思議に思われる方も多いでしょう。
今回は、この嵐山町の嵐山渓谷の謎を歴史を追ってご紹介いたします。

本多静六博士

本多静六博士

写真:Naoyuki 金井

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嵐山の地名は、昭和の始めに槻川渓谷を訪れた本多静六博士が、その渓谷美を見て「京都の嵐山に似ている」と評したことに由来します。
この本多静六博士とは、日本の「公園の父」といわれる日本初の林学博士で、日比谷公園を皮切りに北海道の大沼公園、東京都の明治神宮、奈良県の奈良公園、福岡県の大濠公園などの多数の公園の設計・改良に携わった埼玉県の誇る偉人です。

昭和3年当時、このあたりは比企郡菅谷村と呼ばれており、その渓谷の地形から秩父の長瀞岩畳に例えて「新長瀞」と呼ばれていたのですが、本多博士が武蔵国(埼玉県・東京都)の嵐山であることから「武蔵嵐山」と形容した時が、まさに京都の嵐山が埼玉県に出現した始まりで、この後、この名称とともに幾多の遍歴を経て現在の景勝地となるのです。

与謝野晶子

与謝野晶子

写真:Naoyuki 金井

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本多博士によって命名された武蔵嵐山は、「東に『嵐山』あり」といったマスコミの報道により一気に話題となりました。それに拍車をかけたのが渓谷周辺にオープンした料理旅館「松月楼」で、遊覧周遊が人気となり、埼玉を代表する景勝地を一目見ようと大勢の観光客が訪れたのです。
昭和10年には、東武東上線・菅谷駅より名称変更された武蔵嵐山駅から長蛇の列ができた人気ぶりでした。

このような中、昭和14年6月に現代短歌の道を開いた代表歌人・与謝野晶子が、娘の藤子さんとともにこの地を訪れ、美しい景観に感銘し、渓谷の自然などをテーマに「比企の渓」29首を歌い上げたのです。

「比企の渓 槻の川 赤柄の傘を さす松の 立ち並びたる 山の しののめ」

代表的な一首で、夜明けの薄明かりのなかで、槻川沿いに立ち並んだ幻想的なアカマツ林を詠ったもので、PR的効果と相まって、一層人気が高騰したのです。

松月楼と一平荘

松月楼と一平荘

写真:Naoyuki 金井

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戦前は随分と賑わった嵐山渓谷ですが、戦後しばらくの間は往時の賑わいを取り戻すことは出来ませんでした。
当時、観光の目玉で、大変繁昌していた料理旅館「松月楼」は、戦時中、学童疎開の宿舎となって荒廃し、戦後、復興して開業したのですが、往時の繁昌は幻のごとくの状況で、惜しまれつつ閉鎖されたのです。

この松月楼の経営を代わったのが、神楽坂にあった割烹「一平荘」で、赤坂本店の支店として、昭和30年頃この地に開業し、徐々に観光客も戻り、往時の賑わいを取り戻すかに見えたのです。
しかしながら、あろうことか道路を修理するためオーナー自らが運転するブルドーザーから落ち、挙句に轢かれるという不慮の事故で亡くなってしまい、店は閉店となり、その後、焼失してしまったのです。
現在、一平荘の名残はありませんが、その跡地は「ススキヶ原」として、郷愁を誘っています。

比企郡嵐山町

比企郡嵐山町

写真:Naoyuki 金井

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武蔵嵐山は、紆余曲折ながら観光地として発展してきました。
そして、一平荘が開業した昭和30年には、当時の菅谷村と七郷村が合併し、より規模の大きな菅谷村が発足したのです。
これ以降、武蔵嵐山の人気はうなぎ上りとなり、景勝地としての名称「武蔵嵐山」、最寄り駅としての名称「武蔵嵐山駅」が揃っているのですが、地名だけは規模が大きくなったといっても「菅谷村」という、もどかしい状況でした。

その待ち望んだ機会が訪れました。
村の成立に法的な要件は特にないのですが、町となるためには県が定める要件をクリアしなければならず、好きな時に改称というわけにはいかないのです。
そして巡ってきた機会が昭和42年で、町として成立可能な要件を満たしたことから、町制施行により「嵐山」と改称し、名実ともに「武蔵国の嵐山」が成立したのです。

緑のトラスト保全第三号地

緑のトラスト保全第三号地

写真:Naoyuki 金井

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観光地として順調に発展を遂げた嵐山ですが、昭和50年に一平荘も閉店した後、実際にこの渓谷美を維持していくのは他の自治体と同様、大変な課題となりました。
そこで活用しようとしたのが、当時発足した「さいたま緑のトラスト運動」です。
これは県民からの寄附により土地や建物を取得、及び寄贈等を受け、自然や歴史的景観を保全していこうという運動で、昭和59年に「さいたま緑のトラスト協会」が発足、翌60年には「さいたま緑のトラスト基金」が県に設置され、両者が一体となって運動を進めていくシステムなのです。

平成8年、念願かなって、この嵐山渓谷も埼玉県内で三番目のトラスト地に指定され、美しい景観が維持されることとなったのです。
現在、嵐山渓谷は冠水橋から始まり、比較的平坦な散策道が整備され、四季折々の美しさを多くの方が堪能できるようになったのも、このトラストのおかげなのです。

最後に。。。

埼玉県を代表する景観を誇る嵐山ですが、本家京都・嵐山には足下にも及びません。
しかしながら、春の桜と新緑、夏のバーベキュー、秋の紅葉と四季を通じて楽しめる嵐山渓谷は本多静六博士所縁の地としても、景勝地としても埼玉県の誇りです。

実際に訪れて、本家京都・嵐山の佇まいの一端でも感じていただければ幸いです。

掲載内容は執筆時点のものです。 2013/11/24 訪問

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