写真:吉川 なお
地図を見るイストラ半島西岸、アドリア海に面した港町ポレッチは、ローマ時代に都市計画に基いて造られた町です。古代名は「パレンティウム」で、この町の中心部に城塞が建てられ、ローマの植民都市として発展しました。町を東西に貫くデクマヌス通りは古代ローマ人も歩いていた石畳の道。兵士が10人並んで歩けるように造られた昔から変わらない町のメインストリートです。
イストラ半島の政治の中心地として栄えてきたポレチュは、その後、ビザンツ帝国、ヴェネチア共和国、オーストリア・ハンガリー帝国などの列強諸国に支配されます。歴史地区(旧市街)には各時代の影響を受けた遺構が残っていて、ポレッチが歩んできた波乱の歴史を垣間見ることができます。
デクマヌス通り沿いに建つ立つロマネスクハウスは、13世紀に建てられた邸宅で、木製のバルコニーが人目を引きます。ローマ時代の2世紀に建てられたネプチューン神殿跡も貴重な遺跡です。
写真:吉川 なお
地図を見るこの町のシンボルは1997年に世界文化遺産に登録された「エウフラシウス聖堂」です。同じ敷地にある8角形の洗礼堂、鐘楼、柱廊で囲まれた中庭、司教の邸宅、奉納礼拝堂なども含めた複合体で、初期キリスト教、ビザンチン、中世の異なる建築様式と芸術の融合が評価されたものです。
4世紀初頭に建てられた小さな礼拝堂の跡地に、5世紀になって聖堂が建てられ、6世紀中頃のビザンツ帝国の時代に司教エウフラシウスによって10年かけて現在の姿に改築されました。
海岸線に建つため、潮の満ち干きの影響を受けないよう改修の度に1メートルずつ土台が上げられていきました。中庭の2メートル下にはローマ時代にそこにあった邸宅の床を飾っていたモザイクが現存しています。キリスト教の象徴である魚のモザイクなど、1ミリ四方の正方形に切ったガラスや石を組み合わせた精巧なモザイク画で、これらは聖堂の床下でも見ることができます。
聖堂内部に一歩足を踏み入れると、黄金色に輝く後陣が目に入ります。祭壇上部の天蓋とそれを包むドーム型の円形屋根、後陣の壁一帯が金色のモザイクで彩られ、まばゆいくらいに輝いています。
アーチの上部には『Ego sum Lux vera(私は真の光である』と書かれた本を持つキリストと十二使徒、細いアーチの部分には神の羊と女性殉教者たちのメダル、後陣上部のドームには幼いキリストを抱いた聖母マリア、天蓋には受胎告知と聖母マリアの訪問の場面が装飾されています。
どれも精巧な美しいもので、ビザンツ美術の傑作と讃えられています。8世紀に起きた聖像破壊運動の頃、すでにビザンツ帝国から離脱していたため破壊を免れた貴重な遺産です。
写真:吉川 なお
地図を見るイストラ半島の南端にあるプーラもローマ時代の繁栄を伝える町です。交易の中継地として栄えた港町には未だローマ時代の敷石が敷かれ、歴史を重ねた建造物が町のいたるところに建っています。
双子門とヘラクレス門は当時の市壁の一部、旧市街の中心広場に建つアウグストゥス神殿は、初代ローマ皇帝アウグストゥス時代に建てられたもの、町の西にある凱旋門はローマの内戦で活躍したセルギウス家の栄誉を讃えて紀元1世紀に建てられたものです。
写真:吉川 なお
地図を見るこんな静かな港町に、びっくりするようなローマ遺跡があります。コロッセオを連想させる巨大な円形競技場(アレーナ)で、外壁の直径は132メートル、高さは30メートル、72の窓と3段の観客席を備え、当時は2万3000人の観客を収容できたという世界で6番目に大きい円形競技場です。
紀元1世紀頃からおよそ80年の歳月をかけて、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの業績を讃えるため海を見下ろす高台に建設されました。
イストラ半島産の白い石灰石で造られた外壁はほぼ完全な状態で保存されていて、そのスケールの大きさに圧倒されます。
闘技場を見下ろす位置に置かれたライオンの像は権力の象徴。現在は風化が進み原型を留めていませんが、お見逃しなく。
当時は弾圧されていたキリスト教徒や罪人をライオンに襲わせる残忍なショーなどが行われていましたが、現在はオペラやバレエ、コンサートなどのエンターテイメントの場となっています。
地下は博物館になっていて、この地方から出土した壺やアレーナの図面などを見ることができます。
ポレチュとプーラはローマ時代の残影がいまも色濃く残る町。人々の生活の中に古代の遺構が溶け込み、共存しながら大切に保存されています。
ローマ時代の息吹を感じながら、古代のロマンに浸る旅に出かけてみませんか。
この記事の関連MEMO
- PR -
トラベルjpで250社の旅行をまとめて比較!
このスポットに行きたい!と思ったらトラベルjpでまとめて検索!
条件を指定して検索
(2024/4/19更新)
- 広告 -