写真:村井 マヤ
地図を見る平櫛田中(ひらくしでんちゅう:1872-1979)の故郷にある「井原市立 田中美術館」は、昭和44年に「田中館」として開館後、改称、新館の開館などを経て現在に至っています。3階建ての建物で、3階には東京のアトリエが再現されています。このアトリエ、見応えあります。
平櫛田中氏(以降、田中と記述します)は、10歳の時に平櫛家の養子となり、1893(明治26)年に大阪の人形師・中谷省古に彫刻を、満25歳で上京した後は高村光雲にも師事。その後、禅僧・西山禾山や日本近代美術の功労者・岡倉天心(1863-1913)の影響を強く受けました。(田中の出生には、もう一つ説がありますが、本人もよく分からないとのことです)
田中の戸籍上の名前は倬太郎、田中家の父が付けた名前は倬造だそうです。「田中」と「平櫛」の両方をとって平櫛田中と名乗られたんですね。
西山禾山の「禾山笑」(1914:ブロンズ)は大口を開けてのけぞって笑う姿で、禾山和尚を表現しています。田中の作品には時折こうしたコミカルで、ユーモアな彫刻が見られます。これもまた、魅力的なんですよ。
美術館の前には、「田中苑」という庭園があり、水の流れる涼やかな苑では樹木とともに作品を見ることができるんです♪
写真の「鏡獅子」像の左側には茶室まであり、なんとも雅なつくりなんです。その中で、彫刻界の巨匠の作品を散歩しながら眺めることができる・・!こんな贅沢な話はありません。
写真:村井 マヤ
地図を見る「鏡獅子」は、鏡獅子試作裸形(かがみじししさくらぎょう)、鏡獅子試作頭(かがみじししさくかしら:1938年))、試作鏡獅子(しさくかがみじし:1939年)に見られるように、何度も試作を繰り返し、1955年に完成した大作です。「鏡獅子」とは歌舞伎の演目「春興鏡獅子」の略称で、モデルは六代目尾上菊五郎です。この大作「鏡獅子」は、日本の伝統芸能の殿堂、国立劇場のロビーに置かれています。高さ2メートルに及ぶ巨大彫刻です。
美術館内部には、試作品やブロンズ像を作るための木型なども展示されており、その丁寧かつ精緻な作品作りに胸を打たれます。
もっと驚かされるのは、田中がこの作品を完成させたとき、なんと86歳だったということ!すごいエネルギーとバイタリティ・・。もう脱帽です。
尾上菊五郎さんの歌舞伎の稽古は、筋肉の動きを観察するために裸で行っていたそうです。その基本を念頭に、田中は「鏡獅子試作裸形」を制作したのです。そこにいるかのような、リアルさがあります。
同時に、田中は、この大作を作成するとき、モデルの六代目菊五郎が公演している歌舞伎座 に、25日間通いつめ、いろいろな角度から舞姿を観察しました。そして、納得のいくまで構想をねっています。
写真は、「鏡獅子」のブロンズ像です。
写真:村井 マヤ
地図を見る明治30年代の彫刻界における木彫の衰退に危機感を覚えた高村光雲は、西洋のリアリズムを取り入れて、木彫の蘇生への努力を続けました。田中の作品は、光雲のリアリズムを取り入れた新しい木彫を基調としています。また、田中の彫刻仲間であった米原雲海が取り入れた「星取り法」も、田中が積極的に継承していったものです。大変手間がかかるそうですよ。
1907(明治40)年、日本で最初の総合美術展「文部省美術展覧会(文展)」で、田中は「姉ごころ」で入選をします。木彫作品は、東京国立近代美術館にありますが、ブロンズ像は井原市の田中美術館にあるのでご覧になれます。可愛い彫刻ですから、必見です♡
田中にとって、文展より重要視していたのは、同じ年に米原雲海や山崎朝雲ら5人とともに結成した木彫研究団体「日本彫刻会」でした。田中は、翌年の第一回展に「活人箭(かつじんせん)」を出展!この作品が岡倉天心の目にとまりました。芸術の表現は「理想」にあると語り彫刻に「精神性」を求めた天心は、田中の「活人箭」を見て『「理想」をやってくれる彫刻家は平櫛田中だけだ』と言ったそうです。すごい!!この作品と同型のものも井原で見れます。
岡倉天心への田中の崇敬の気持ちは、生涯を通してのことでした。何度も天心をモデルにした作品を作っているのもその表れですよね。お孫さんの平櫛弘子さんによると、田中は、天心の死後1年間毎日、天心の墓参をしたそうです。また、天心の戒名は「釋天心」といいますが、これも田中の意見とか・・。写真の岡倉天心の胸像にもありますね。(岡倉天心像/1931:ブロンズ金箔)
岡倉天心がモデルということで有名な作品「五浦釣人」は、何点もあります。井原にはブロンズ像があり、広島県福山駅の南口付近にも大きなブロンズ像がありますよ。木彫作品は、岡山県、茨城県にあるそうです。
五浦(茨城県北茨城市)の海岸で、釣りにでかける岡倉天心を撮影した写真をもとに制作されています。天心は五浦で、日本画の下村観山・横山大観・菱田春草・木村武山などを指導する一方、思索にふけったり、釣りを楽しんで過ごしたそうです。
写真:村井 マヤ
地図を見る「いまやらねば いつできる わしがやらねば たれがやる」
「六十七十は はなたれこぞう おとこざかりは 百から百から」
田中が好んで使ったり、書いたりした文句。これらは、田中の精神の師西山禾山(にしやまかさん)和尚との出会いが大きいでしょう。田中は、後年禾山和尚との出会いは、「何よりも幸運だった」と語っています。
百歳である程度の面目を発揮し、百七歳まで深化した田中の書。
田中は、98歳で東京の小平市にアトリエを新築して、百歳で30年分の材木を買い込んだそうですよ・・。どこまでもやる気満々!こうありたいものですね。
田中には3人の子供がいました。2番目が長男の俊郎さん。この像は、張子の犬をもって遊んでいた幼子が、おもちゃを放り出し、手を伸ばして新しい何かをねだっているところです。美術館やHPで後ろ姿も見ることができるのですが、赤ちゃんの背中の柔らかく可愛い様子がすごいんです!思わず撫でたくなる可愛らしさです。
50代まで貧困を極めた田中は、3人の子供のうち2人を結核で亡くしています。「人間貧乏は我慢できるがこどもに死なれるほどつらいことはない」「涙が出なくなるのに三年かかる」この苦難の中で、ひたすら彫刻に打ち込んだのでしょう。
幼児狗張子(ようじいぬはりこ/1911:木彫)や姉娘(1928頃:木彫)は亡くなった2人の子供をモデルにしています。姉娘は長女幾久代さんがモデル。平櫛弘子さんが「祖父の思い出」の中で、幾久代さんのことを書かれていますが、大変優秀で綺麗な方だったそうです。19歳という若さで、亡くなりました。次の年には、俊郎さんが。俊郎さんは、「親父・・長生きして、出来るだけ沢山の作品を作ってくれ」と言い残したそうです。田中は、亡くした子供たちの分も生きていこうと思ったのでしょうね・・。
芸術作品は、絵画もそうですが、やはり実際見なければ本当の感動は伝わらないでしょう。
人生観が変わりますよ・・。ちょっとオーバーですが本当に素晴らしい世界が待っています。井原市や美術館へのアクセスは下記MEMOを参照。
井原市は、風光明媚な優しい土地です。葡萄や桃、馬肉などの名産もあります。また近くの美星町には天文台を中心に「中世夢が原」という観光施設もありますから是非足を延ばしてください。
参考文献:『中庵老人 平櫛田中』(井原市立田中美術館)
:『百八歳 平櫛田中翁』(1980、井原市立田中美術館)
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(2024/3/29更新)
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