浄瑠璃「壺坂霊験記」の舞台、奈良・壷阪寺はまるでテーマパーク

浄瑠璃「壺坂霊験記」の舞台、奈良・壷阪寺はまるでテーマパーク

更新日:2014/09/29 14:34

奈良県高市郡高取町にあり、西国三十三ヶ所観音霊場第6番札所として知られる壷阪寺。弁基上人によって703年に創建された古刹。
ご本尊の千手観音菩薩は、浄瑠璃「壺坂霊験記」にも登場されることから眼病に霊験があらたかとされ、参拝客が絶えない。
創建当時からの文化財はほとんどないが、広大な敷地がさまざまなテーマに区切られていて、かなり楽しみながら参拝できる…まるでテーマパークのようなお寺だ。

古刹にふさわしい風情をもった仁王門

古刹にふさわしい風情をもった仁王門
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寺伝によると弁基上人が修行していたときに、愛用の水晶の壺坂の上にある庵に納め、感得した像を刻んで祀ったのが始まりとされる。

山門には仁王像もおられ、古寺の風情を十分に感じる。しかし、一たびこの門をくぐれば三重塔や本堂の前に、白く大きな大釈迦如来に普賢、千手観音、文殊菩薩など石造りの仏像がたくさんおられ、古刹というよりはむしろ新しい印象すら受ける。

門自体は鎌倉時代の建立だが、平成10年の台風により屋根が半壊するダメージを受け、その後解体修理がなされ、平成15年に旧参道の入口から現在の場所に移築されてきた。

インドから来られた大観音像

インドから来られた大観音像
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全長20m・全重量1200tもの大観音石像は、前住職がインドのハンセン病救済事業に尽力されたという縁で、インド国民の協力と南インド・カルカラの三億年前の古石がインド政府や様々な方のご支援で提供された。インドの文化勲章受章者シェノイ氏及びその一門の指揮のもと、延べ7万人のインドの石工により、すべて手造りで製作されたといわれている。

パーツごとに彫刻された66個の石が日本に運ばれ、基礎部分には数万巻の写経と土台石、また胎内には数万巻の写経と胎内石が納められてここで組み上げられた。

そして大観音像の視線の先には、同じくインドにおける国際交流・石彫事業の一環として製作された、全長8mの釈迦涅槃像が横たわっておられる。
涅槃像というのは、すべての教えを説き終えたお釈迦さまが、臨終を迎えたときの姿を像であらわしたものだ。

壺坂霊験記(つぼさかれいげんき)

壺坂霊験記(つぼさかれいげんき)
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こちらのご本尊の千手観音菩薩は、現世利益の観音さまの中でもとくに眼病に霊験あらたかと云われている。壷阪寺には、それについてのエピソードが伝わってるので、簡単に紹介したいと思う。

大和壺坂村に住む、沢市とお里夫婦は仲睦まじく細々と暮らしていた。沢市は目が不自由なので三味線の稽古、お里は縫い物などの賃仕事が頼り。

あるとき、妻のお里が、沢市に隠れてこっそりと夜中に抜け出し、明け方になると帰ってくることに気付き…「さては自分に隠れて他の男と逢引をしているのでは?」と沢市は疑いを持ち、お里を問い詰める。

しかし、お里の口から出てきたのは「沢市さんの目が治るようにと壺坂寺の観音さまへ毎夜、願掛けのお参りに行っておりました…」という言葉。

事情を聞いた沢市は、貞節な女房を疑い続けたことを心から詫び、そして二人は壺坂寺へ一緒にお参りに出かけていく。

観音堂に辿りつき、沢市は三日の間断食をすると言い、お里は用事を済ますために家に帰る。一人残った沢市は「お里が必死に願っても目が治る見込みなどない…目の見えない自分がいては、将来お里の足手まといになる」と考え、自ら断崖へ身を投げてしまう。

お寺へ戻ったお里は、沢市の姿がないことに気付き、見えない姿を求めて名を呼び続けたが、断崖の上に残された杖を見つけてすべてを悟り「沢市さぁ〜ん!」と狂わんばかり泣き叫ぶ。
そしてあまりの悲しみに耐えられず同じ断崖から身を投げてしまう。

そんな二人のもとに千手観音菩薩が現れ、二人の深い愛情と信心に免じて、新たな命を与えてくださるのだった。

やがて夜が明け、谷底で倒れていた沢市とお里は起き上がり、命が助かったことを喜ぶ。それに、なんと沢市の目がしっかりと開いていることに驚き、千手観音菩薩のご利益にいっそう深く感謝したのであった。

そしていつまでも仲睦まじく暮らしたそうな…。

この物語は歌舞伎でも演じられ、中村美津子さんの『壺坂情話』という歌にもなっている。

本堂からの眺めは、まさに絶景

本堂からの眺めは、まさに絶景
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本尊十一面千手観世音菩薩を祀る八角円堂は、手前の礼堂(らいどう)とつながる様に建てられている。創建は703年頃と伝わるが、現在のものは江戸時代の再建とのこと。
奈良時代を代表する建築様式の一つであり、創建当時からの遺構としては法隆寺の夢殿や興福寺の北円堂、栄山寺の八角堂などが有名だ。
礼堂から御本尊にお参りし、本堂の中をぐるりと一周できるようになっているだけでなく、建物のの外側も回ることができ、本堂からちょうど西の方角には、遠く葛城山や二上山が臨める。
裳階(もこし)の先に吊るされた風鐸(ふうたく)がカランカランと軽やかに奏でる音を聴きながら、悠久の時に思いを馳せるのも一興だ。

天竺渡来仏伝図レリーフ

天竺渡来仏伝図レリーフ
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この石のレリーフはインド南部のカルナタカ州において、延べ5万7千人もの石工たちの手によって、インドの石に彫刻され製作されたものである。
原図自体は、奈良教育大学の教授がインドを旅し、お釈迦さまの生涯を訪ね歩いて構図をまとめられ、誕生から入滅までの間にある、数百もの佛伝図の中から、比較的誰でも知っているストーリーが選ばれて描かれている。

またこのレリーフは、高さ3m・全長50m・重さ300tにも及ぶ巨大作品なので、まずインドでは各場面を数個に分断し彫刻され、その結合作業は日本に運んでで行われた。
そのとき本体の彫刻はインドの石工たちの技術とセンスを、ありのまま伝えるために、一切の修正を加えないまま組み立てられている。これぞまさに、リアルな仏教伝来だ。

古代から続く歴史の宝庫、高取町

壷阪寺がある高取町は、古代より飛鳥から吉野や紀伊に通じる道の途上にあたる重要な位置であり、古くから周辺の人口集中を支える地域として発展していた場所。
壷阪寺からすぐ上の山の中には、五百羅漢と呼ばれるおびただしい数の仏像が、大きな石に刻まれているなど、信仰の場としても重要だったことが伺える。

また現在では城壁しか見ることはできないが、壷阪寺から2キロほど登った山頂には、中世に築かれ明治維新まで存在し「日本三大山城」に選ばれている高取城址がある。
町並みも、かつて植村家2万5千石の城下町として栄えていた名残を、現代に伝えられているなど、とにかく見どころが沢山あるので、飛鳥、吉野へお越しの際は、ぜひ立ち寄ってみてはいかがだろう。

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掲載内容は執筆時点のものです。 2014/07/23 訪問

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