源平合戦の英雄!那須与一の誕生と伝説の郷、栃木県大田原市

源平合戦の英雄!那須与一の誕生と伝説の郷、栃木県大田原市

更新日:2014/08/14 13:06

那須 マッキーのプロフィール写真 那須 マッキー 関東旅行ブロガー、那須高原写真家、滝巡り案内人、那須の郷土研究家
那須高原という名称から平家物語に登場する「那須の与一」を連想する人はかなりの歴史通。しかしその誕生や源義経との出会い、合戦その後について詳しくは伝えられてはいません。那須と大田原市周辺に残る那須与一ゆかりのスポットをご紹介します。

那須与一は左右の腕の長さが違っていた!!

那須与一は左右の腕の長さが違っていた!!

写真:那須 マッキー

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有名な屋島の合戦で見事に扇の的を射抜いたお話はあまりにも有名。那須与一は下野の国那須野が原(現在の栃木県北部那須地方一帯)に勢力を持った那須資隆(太郎・須藤宗資の子、後に那須氏を名乗る)の十一男として誕生。10人目以降に生まれた子供は、十に余るという事から「与一」と名付けられました。

幼少の折から弓が達者で修行を積みすぎたため、左右の腕の長さが違ったとも云われています。父を初めとして、9番目までの兄たちは皆「平家」に味方をしていましたが、奥州平泉にいた源義経が、兄の頼朝に加勢するため、治承4年(1180年)戦勝祈願に「那須温泉神社」を参拝に訪れた際、那須岳で弓の稽古をしていた、兄十郎為隆と与一に源氏方に従軍させる約束を交わしたと云われています。これが与一と義経の出会いで、その後の那須家一族の運命を左右する事になります。

義経と行動を共にした与一は、屋島の合戦の功労により、源頼朝より11番目の子でありながら、那須家総領の身分と5か所の領地を与えられました。平家に味方していた9人の兄と十朗には那須の各地を分地して与え、それ以降は、那須十氏として本家に仕え、それぞれの地位を築いていきました。

義経が奥州平泉から関東を通過した道筋の「義経街道」は現在では「東山道」と呼ばれています。

「道の駅与一の郷」の屋根は自慢の”扇型”

「道の駅与一の郷」の屋根は自慢の”扇型”

写真:那須 マッキー

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「道の駅那須与一の郷」は、大田原市金丸に平成16年に誕生しました。この施設の特徴の一つに、施設の屋根が大きな「扇」の形をしている事が挙げられます。道の駅に限らず、併設の「那須与一伝承館」も扇型の屋根。ここにある施設全てが、那須与一関連で統一されています。

施設中央には那須与一「モニュメント」があり、その弓矢の先は施設入り口に設置された、平家の真っ赤な扇に狙いを定めています。その距離約70メートル、屋島の戦いで馬上から矢を放った距離とほぼ同じなのも面白いですね。

観光情報館・物産館・農産物直売館・レストラン館なども、那須与一の関連一色。道の駅の隣にある「那須与一伝承館」では、与一が扇の的を射た際に身に付けていたとされる「太刀銘成高(しげたか)」の大刀や、後の時代に上杉謙信や豊臣秀吉が那須家に送った書簡、伝来の絵など歴史上貴重な品々が展示してあります。

屋島の合戦の前に、一矢必中を願った「那須神社」

屋島の合戦の前に、一矢必中を願った「那須神社」

写真:那須 マッキー

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「道の駅与一の郷」から徒歩3分の所に、「那須神社」があります。屋島の戦いで候を上げた与一が那須家の総領となり、土佐杉を使用して文治3年(1187年)社殿を再建し社領を寄進しました。この楼門(写真)は2014年3月国指定重要文化財に指定されました。
この神社には那須殺生石の”白面金毛九尾の狐”伝説に登場する三浦上総介義澄がこの社に祈願し妖狐を容易く退治することが出来たので、その弓を奉納したとも伝えられています。更に同年「おくのほそ道風景名勝地」にも指定されています。

那須神社の創建は、仁徳天皇の時代(313〜399)の頃とされ、国家安寧を祈り、本殿裏手には”丸い黄金の財宝”を埋し塚として祠を祀ったとされ、今もその塚があります。那須神社の所在地”大田原市金丸”という地名はここから付いているようです。

与一公は今もここに永眠っている!

与一公は今もここに永眠っている!

写真:那須 マッキー

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那須与一は、京都伏見で病により34歳で亡くなりました(諸説あり定かではありませんが)。那須与一公のお墓については、全国各地に分存しています。始めに京都即成院に造られました。その後に分骨し「須峯山玄性禅寺」栃木県大田原市福原に、一族と共に埋葬されています。
以後、代々那須家はここを本墓としています。与一公の位牌は那須郡那珂川町の「常円寺」に、また那須与一公の愛馬は、那須町上半俵に「馬廻塚馬頭観世音」として祀られています。「玄性寺」には与一公の家紋が記された弓道場があり、毎年、県内外から多くの弓道家が参集し大会も開催されています。

与一公ゆかりの「那須温泉神社」(ゆぜんじんじゃ)

与一公ゆかりの「那須温泉神社」(ゆぜんじんじゃ)

写真:那須 マッキー

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『南無八幡大菩薩、とりわけ我が国の神々、日光大権現、宇都宮大明神、那須温泉神社(なすゆぜんじんじゃ)、願わくばあの扇の真ん中を射させてくれ給え、これを射損じる位なら、弓を折り腹をかきさばいて、再び人にまみえる心はありませぬ、今一度本国(那須)へ返そうと思し召されるならば、この矢を外させ給うな〜』

これは四国・屋島の戦いで、見事扇の的を馬上から射抜いた際の有名な一節ですが、その時、与一は若干17歳とも20歳であったとも云われています。「那須温泉神社」には、那須神社と共に願をかけて見事成功させた謝礼として、鳥居が奉納されました。「那須余一宗隆 大治弐年(1186)奉献」の表札があります。

まとめとして

那須高原とその周辺の地域には、那須与一の足跡が沢山あります。なかでも栃木県大田原市は与一の生まれ故郷でもあり、「郷土の誉れ那須与一」として市を挙げて、市のキャラクター「与一君」を初め、毎年8月に行われる「与一まつり」など、あらゆるイベントや施設にその名が登場します。

与一公墓碑から那須神社までは10キロ、那須温泉神社までは40キロの地点にあります。遠い源平の歴史ロマンに触れる旅、皆さんも機会があれば、訪ねてみては如何でしょうか。

掲載内容は執筆時点のものです。 2014/07/29 訪問

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