天領笠岡散策で、歴史的偉人ゆかりの場所や笠岡ラーメンに出会う

天領笠岡散策で、歴史的偉人ゆかりの場所や笠岡ラーメンに出会う

更新日:2014/11/22 10:33

村井 マヤのプロフィール写真 村井 マヤ 中国・九州文化的街並探検家
岡山県笠岡市は、県の南西部に位置する瀬戸内海に面した港町です。笠岡湾干拓地と天然記念物カブトガニの繁殖地としても有名です。歴史的には、旧備中国に含まれており源平合戦にも参加した陶山氏や村上水軍の支配地ともなりました。江戸時代初期には、福山藩水野氏の領地になり、江戸時代後半には幕府の直轄地でもありました。今回は、天領だった笠岡市を歩いて散策する旅のご提案!歴史散策とラーメンも食べちゃいましょう!

遍照寺多宝塔は、天領笠岡の中心に位置したシンボル!

遍照寺多宝塔は、天領笠岡の中心に位置したシンボル!

写真:村井 マヤ

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山陽本線笠岡駅を降りて、徒歩で約3分で行ける観光スポットとして必ず見て欲しいのが、「遍照寺多宝塔」です。岡山県に4つある多宝塔の中で最も古いもので、国の重要文化財でもあります。

多宝塔は、江戸時代の慶長11(1606)年の建立。この多宝塔の亀腹(ドーム状の屋根)は本瓦葺になっていますが、かつては漆喰で固めてあったものを、明治時代の修理のとき改変したということです。
内部の天井・壁・柱などには装飾文様・絵画が極彩色で描かれているそうです。
塔の傍らには、落慶供養のため法華経を読誦したことを記す石碑が建っています。
また、多宝塔と並んでそびえ立つ大きなイチョウの木は、塔の建立記念に植樹されたといわれています(市指定天然記念物)。秋になると美しい黄が映えますよ。

遍照寺は駅前土地区画整理事業によって移転しており、現在、多宝塔の周囲は「いちょう公園」として整備されています。区画整理以前は、周囲に吉祥院・南昌院・西明院・観照院の末寺を配していました。

江戸時代、笠岡は幕府の直轄地天領として栄えました。今はすっかり昔をしのぶ寺町の風景はありませんが、街をゆっくり歩いていると、かすかに残る天領の風情が見え隠れします。昔の栄華の片りんをこの多宝塔を眺めながら想像するのも楽しいものです。

犬養毅も若い頃出仕した小田県庁跡・・

犬養毅も若い頃出仕した小田県庁跡・・

写真:村井 マヤ

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写真は、現在笠岡小学校になっている、笠岡代官所跡であり小田県庁跡です。庁の正門として、都宇郡妹尾村(現岡山市妹尾)の戸川陣屋の長屋門を移築しました。そのため軒丸瓦の紋様には戸川氏の家紋「三本杉」が使われています。笠岡駅から徒歩3分くらいなので、是非立ち寄って下さいね。

小田県とは、今は存在しない県名です。幕末から明治にかけての混乱ぶりをうかがわせますよね。簡単にその歴史について説明します。

明治4(1871)年の廃藩置県後、備中国は10県ありました。その10県とは、庭瀬・足守・浅尾・成羽・岡田・高梁・新見・倉敷などのこと。この10県に旧備後国福山県を統合して、当初は深津県としました。領域は、備中国全体と備後国東部6郡で有数の石高と人口を有する県になりました。最初、深津県の県庁を深津郡福山町(現広島県福山市)の福山城に置く予定でした。結局、明治5(1872)年に小田県と改称して小田郡笠岡村、幕府笠岡代官所跡に変更になりました。小田県として笠岡に県庁が置かれたのは、明治5年から明治8(1875)年のわずか3年ほど、その後は岡山県に統合。翌年第2次府県統合により、岡山県のうち旧備後国の福山が広島県へ移管され現在に至っています。実にめまぐるしいですよね・・。

さて、この小田県庁には、第29代内閣総理大臣になり、「5・15事件」で亡くなった犬養毅(1855-1932)が書記として勤めていました。犬飼毅の実家は、庭瀬の大庄屋で遠祖は犬養健命と言われ吉備津彦命の随神だったと伝えられています。彼は、小田県庁ができた明治5年から明治7年まで出仕したそうです。犬飼毅は「昭和の実盛」とも呼ばれました。「話せばわかる」の名台詞を残して、亡くなったのはあまりに有名ですよね。余談ですが、俳優の奥田瑛二さんの妻で、タレント・エッセイストの安藤和津さんは、犬養毅のお孫さんなんですよ。

いも代官こと井戸平左衛門正明の墓もある曹洞宗威徳寺へ〜

いも代官こと井戸平左衛門正明の墓もある曹洞宗威徳寺へ〜

写真:村井 マヤ

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昔は栄えていた金浦地区を抜けると、小高い所に公園が見えてきます。手前に威徳寺というお寺があり、奥に「井戸公園」とよばれる桜の名所があります。もともとこの公園は、私有地で井戸代官をしのぶ有志によって管理されていました。昭和11年に笠岡町に寄付され、昭和31年には都市公園になりました。

威徳寺にあるのが井戸平左衛門正明の墓です。彼は、享保16(1731)年60歳の時に、島根県石見大森の代官になりました。長い間の勘定役としての仕事ぶりを大岡忠相に認められたとも言われています。この翌年、大凶作の影響で、日本中が大打撃を受けました(享保の大飢饉:1732)。その時いち早く、手を打って多くの民を救ったのが、石見代官だった井戸平佐衛門でした。さつまいもの栽培を手がけ、飢饉にあえぐ人々のために多大な活躍をしました。その功績もあり各地に井戸代官こと「いも代官」を讃える碑も数多く立っています。

飢饉の年に笠岡の代官も兼務することになりました。激務が堪えたのか、享保18(1733)年5月に死去。切腹との説もありますが、病死と言われています。多くの人々を救った代官は、笠岡の地で静かな眠りについています。島根の石見銀山には神社もありますよ。詳しくは下記MEMOを参照。

威徳寺の、タワシでこすると体が治ると言われる「白岩とげ抜き地蔵」も有名です。

線路に分断された古城山稲富稲荷を目指す!

線路に分断された古城山稲富稲荷を目指す!

写真:村井 マヤ

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区画整理で、昔の面影を失っている笠岡の町ですが、線路沿いには古い白壁が残る商家や古い神社などをが見受けられます。あまり手を加えられてなく、一部損傷も激しいですが、ひっそりと佇む白壁や神社は風情があります。
そして面白いのは、線路に分断された神社です。線路の上に神社の鳥居へ向かうための陸橋がありそれを渡って階段を登ると神社に辿り着けますよ。

この神社のある古城山は、古くはお城でした。また歴史のある神社の名前は、稲富稲荷神社と言います。創建は、弘治元(1555)年笠岡城(現古城山)の城主であった村上氏が、城内の鎮守を勧請したのが始まりです。

笠岡の宮大工の技が光る見事な社殿の装飾や、鮮やかな朱塗りが見事な拝殿(1819年に再建)、三間社である本殿(1845年再建)などは見応えがあります。また、江戸時代から明治にかけて寄進された玉垣などから、当時の笠岡港の繁栄ぶりもうかがえます。

古城山からの眺めはよく、広大な笠岡湾干拓や港に出入りする船を眼下に見渡せる景勝地です。春には400本に及ぶソメイヨシノが見事で、桜の名所でもあります。

鶏ラーメンと言われる笠岡ラーメンも食べて帰りましょ♡

鶏ラーメンと言われる笠岡ラーメンも食べて帰りましょ♡

写真:村井 マヤ

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笠岡ラーメンのお店は何軒かありますが、今回は笠岡市立図書館のすぐ前にある「中華そば しだはら」をご紹介します。
お昼時には、行列ができるお店!開店は11時ですので、開店と同時に行かれるか、お昼過ぎなら並ばずに食べることができそうです。
笠岡ラーメンは、「鶏そば」、「鶏ラーメン」、「かしわラーメン」などとも呼ばれています。昔は「斉藤」という名店があったそうで、このお店の影響を強く受けたお店が多く残っています。「斉藤」は今はなく、幻の味なんだとか・・。現在ある各ラーメン店は、この「斉藤」の味を目指しているんだとか。

笠岡ラーメンの特徴は、チャーシューが豚ではなく煮鶏を使用しており、鶏だしのあっさり醤油味。メンマやネギだけのトッピングが基本。お店によって微妙に違いますが、基本的にシンプルです。しだはらの場合、チャーシューは煮鶏ではなく豚です。大、中、小のサイズが選べ、麺も硬いか、普通かなど聞かれますのでお好みで。女性やお子さんは小でも十分でしょう。中だと少し多く感じられるかも・・。営業時間等は下記の通り。あっさりした味が好きな方にはおススメです♪

◆中華そば しだはら◆
住所:岡山県笠岡市四番町8-6
電話:0865-62-6064
営業時間:11時〜15時、17時〜20時、日曜は11時〜15時
休み:月曜、第2第4火曜日

歴史散策から笠岡ラーメンまで・・

ちょっと贅沢よくばり旅のご案内ですが、笠岡は小さな町ですので一日で十分楽しめます。カブトガニの生体を詳しく知ることができる博物館や、干拓地にある道の駅など面白いスポットがまだまだありますので、お時間があればお出かけください。詳しくは下記MEMOをご参照下さいね!

掲載内容は執筆時点のものです。 2014/07/23 訪問

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