江の島の岩屋、弁財天と龍〜『江島縁起』に秘められていること

江の島の岩屋、弁財天と龍〜『江島縁起』に秘められていること

更新日:2014/08/07 14:42

観光地江の島。
湘南の海やデートスポットとして有名ですが、実は『江島縁起』という伝説があります。
江の島の起源を語るこの伝説は、5つの頭を持つ龍と弁財天の物語。ところがこの話は、単なる「伝説」の一言で片づけられない部分もあるのです。

龍と弁財天の『江島縁起』に秘められたこととは?
江島神社発祥の地の岩屋と合わせてご紹介いたします。

『江島縁起』のあらすじ

『江島縁起』のあらすじ
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『江島縁起』は平安時代に創られたとされています。
まずはそのあらすじをご紹介しましょう。

昔、鎌倉の深沢には周囲40里もある湖があり、そこには五頭龍が住んでいました。その龍の行った悪行はと言えば、山を崩す、洪水を起こす、疫病をはやらす…そして生贄として子供まで食べていたのです。

欽明13年4月12日(552年)、黒雲が天を覆い、大地震が起きて高波が村を襲いました。大地は10日間揺れ、揺れが収まると今度は海底が大爆発を起こし、岩を吹き飛ばすとそこには小さな島が…。(これが江ノ島です。)

すると雲から美しい天女が現れました。五頭龍はこの様子を見守っていましたが天女にひとめ惚れをして、結婚を申し込みます。しかし天女は悪行を理由に拒否。

諦めきれない五頭龍は行いを改めることを約束し、天女も結婚を受け入れました。その後五頭龍は日照りに雨を降らせ、台風を防ぎ、津波を押し返すなど、約束通り村を守ります。しかしその度に弱って行き、最期を悟った五頭龍は山となり村を守るようになりました。(片瀬山)

天女は江の島の弁財天として、五頭龍は江の島の向かいにある「龍口明神」に祀られています。

※上の写真は第二岩屋奥の龍のオブジェ

岩屋は江島神社発祥の地

岩屋は江島神社発祥の地
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江島神社では岩屋より手前に、辺津(へつ)宮・中津宮・奥津宮の3つのお宮があります。岩屋があるのはその先で、江の島の一番奥。

岩屋は「第一岩屋」と「第二岩屋」に分かれていますが、第一岩屋が「江島神社発祥の地」。(上の写真)
社伝によると欽明13年(552年)に欽明天皇の勅命で、ここに神様を勧請したのが江島神社の始まり。
御祭神に関しては「江戸時代までは宗像三女神が仏教と混ざり弁財天女とされていた」とあります。しかし各宮の創建年代は異なり、今の名前は明治の神仏分離令が出され神道のみとなってから改められたもの。
現在の各宮の名前、御祭神と以前の名前、創建年代は以下のとおり。

奥津宮・多紀理比売命(たぎりひめのみこと)…本宮(御旅所)、創建年代不詳。
中津宮・市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)…上ノ宮、仁寿3年(853年)慈覚大師創建。
辺津宮・田寸津比売命(たぎつひめのみこと)…下ノ宮、建永元年(1206年)源実朝創建。

最初から宗像三女神が祀られていたのであれば、各宮の創建年代は一緒である方が自然です。『江島縁起』の天女は弁財天となっていますので、江戸時代まで祀られていたのは弁財天だったのではないでしょうか。但し、市寸島比売命は弁財天と習合されることもあったようです。

昔は旧暦4月〜10月は岩屋に海水が入り込み、その間神様は本宮(御旅所)に遷座していました。それが大正時代の関東大震災で1mほど島が隆起。現在は海水が入り込まなくなりました。
縁起で「大地震の後海底が爆発、島ができた」と言うのも単なる伝説ではないのかも知れません。年月日まで明記されているので、何らかの地殻変動があったのではないでしょうか。

江島神社アクセス
電車:小田急線 片瀬江ノ島駅〜徒歩約1km
   江ノ島電鉄 江ノ島駅〜徒歩約1.2km
車 :横浜横須賀道路 朝比奈IC〜県道204号〜県道21号〜R134号経由、約13km
   新湘南バイパス 藤沢IC〜県道43号〜R467号経由、約9km

多くの偉人が参籠したパワースポット

多くの偉人が参籠したパワースポット
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第一岩屋に入り中ほどまで進むと、先は暗くなっているのでろうそくを渡されます。ろうそくを片手に奥へと進めば、洞内は真夏でも少しひんやりとした天然の涼しさ。
天井にはシートがかけてありますが、ぽたぽたと水が染み出る音が洞内に響きます。「龍窟」の別名があるように「ここに龍神が住んでいた」と言われても信じてしまうでしょう。

この岩屋は、修験道の開祖である役行者が最初に参籠。その後も空海、円仁、日蓮など多くの名僧が修行したと伝えられていて、古来より聖地とされたパワースポット。途中には26体もの石仏があり、信仰の篤さを感じさせます。

また建久3年(1190年)には、北条時政が子孫繁栄を願いこの地に参籠。満願の夜に弁財天が現れ願いを聞き入れた後、龍となり鱗を3つ残していったことが『太平記』にも書かれています。(これが北条氏の家門の由来)

奥へと進むと道が二つに分かれ、右側の道の奥が先ほどご紹介した「江ノ島発祥の地」。左側の道の奥には日蓮の涅槃姿をした岩があります。(上の写真左下)この岩はもちろん自然のままの形。この場所でこういった形の岩が造られるのは単なる偶然なのでしょうか。

そしてこの岩屋の扉の先は、昔から富士山の鳴沢氷穴に通じていると伝えられています。

銭洗い弁財天に隠された秘密

銭洗い弁財天に隠された秘密
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「銭洗い弁財天」とはよく聞きますが、ここにあるのは「銭洗い白龍王」。
かつては弁財天を祀った岩屋に湧水があり、その霊水で銭を洗うと、金運向上・財宝福徳のご利益があると伝えられていたとか…。

現在は辺津宮の前に移され、弁財天の使いとして白龍王がこの霊水の池を守っています。弁財天と龍はどちらも水の神。龍は弁財天の使いや化身である時もあります。
さらにこの霊水、水源に純金の小判を埋めてあり、黄金水となってそのパワーが増幅。さらなるご利益が期待できそうです。

「銭洗い弁財天」の由来として「砂鉄を含んだ砂を洗う」ことが転じた、とする説があります。(鉄は「かね」とも読むので、鉄→かね→銭)
鎌倉から江の島にかけての海岸の砂は砂鉄を含んでいて、昔は製鉄の材料として使われていました。砂鉄を含んだ砂を洗えば、鉄が採れ福を成す、というところでしょうか。

『江島縁起』にある五頭龍もそうですが、日本の神話や伝説の類では悪龍がしばしば登場します。そこで気になるのが元々日本にいた民族は「出雲族」で、大和朝廷に討伐されたという説。(神話の悪龍=出雲族)
そしてその出雲族が信仰していたのがアラハバキという女神。アラハバキは鉄の神で、鉄の採れるところに祀られていたとか…。しかし出雲族が討伐された後に、大和朝廷の神に書き替えられた可能性があるのです。

妙音弁財天と八臂弁財天

妙音弁財天と八臂弁財天
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辺津宮の横に奉安伝という八角形のお堂があり、こちらに妙音弁財天と八臂弁財天が祀られています。

妙音弁財天は鎌倉時代中期の作とみられ、裸体の女性が琵琶を持つ、妖艶な美しい姿で日本三大弁財天のひとつ。
八臂弁財天は養和2年(1182年)奥州藤原氏を討伐する際に、源頼朝が戦勝祈願として勧請したものと伝わっています。
戦勝祈願でなぜ弁財天?しかもこの八臂弁財天は手に剣や弓を持ち、武装しているのです。

弁財天は古代インドの水の神「サラスヴァーティー」がルーツとされ、この神はヒンドゥー教では梵天の妻。一面八臂の姿をしており人々に弁才・智慧・財宝・延命を与え、悪夢・邪気・呪術・鬼神を降伏するものとして、奈良時代に仏教とともに伝来したとされています。吉祥天と混ざり七福神のひとつになるまでは「戦勝祈願」の神とされていました。

仏教伝来が『日本書紀』では欽明13年とされ、この『江島縁起』で天女が現れたのは同じ年。しかし、弁財天が伝わったのは奈良時代…。
付近で砂鉄が採れていたことからも、最初に祀られていた神はアラハバキであったのかも知れません。

まとめ

江の島をちょっと違った角度からご紹介してみました。
もっと詳しく知りたいと興味を持たれた方と、話が難しいと思われた方といると思います。

あくまで筆者の立てた仮説にすぎません。
しかしこの記事を読まれてから江の島を訪れた方は、観光地化で隠れてしまったものを感じることができるのではないでしょうか。

掲載内容は執筆時点のものです。 2014/07/30 訪問

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