大和・長岳寺から龍王山の不思議スポットを探る

大和・長岳寺から龍王山の不思議スポットを探る

更新日:2014/07/25 17:21

古代の山の辺の道は大和高原の都祁地方と海柘榴市、巻向、石上を結ぶ東西の道。この古代の山人の通商路には、崇神天皇陵、長岳寺から中世の大和最大の山城跡のある龍王山にかけて松本清張をして死者の谷と言わしめた夥しい古墳群が見つかっています。長岳寺から龍王山の城跡まで往復10KMを歩き、この謎に満ちた不思議スポットを散策してみましょう。

弘法大師ゆかりの長岳寺

弘法大師ゆかりの長岳寺
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山の辺の道に残る長岳寺は、天長元(824)年、淳和天皇の勅願により弘法大師が大和神社の神宮寺として創建された古刹。盛期には塔中48坊、衆徒300余名を数えた大寺院でした。12,000坪の境内には四季折々の花が咲き乱れ、千古の歴史を伝える重文の仏像5体、建造物4棟が安置されています。
写真は弘法大師創建当初の唯一の建物で上層に鐘を吊った遺構が残る鐘楼門。

長岳寺
拝観料 大人350円
電話 0743-66-1051

長岳寺境内の弥勒石棺仏

長岳寺境内の弥勒石棺仏
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境内太子堂の前方の小高い所には、荒廃した古墳の石材を用いて造立された巨大石棺仏が立っています。高さ2.4m、幅1.8m、厚さ30cmの凝灰岩からなる石仏は鎌倉中期のもので、顔の表情も柔和で力強く、充実した体躯をもつ素晴らしい弥勒像です。

龍王山の広大な山城跡

龍王山の広大な山城跡
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龍王山の山城は南北2峰に別れており、南北両域を合わせると大和随一の中世城郭です。南北二ケ所に別れながらお互いに呼応しあって一つの城を形づくっていることを、専門用語では別城一郭の構えというそうです。北城(城台)の方が広く、標高520mの郭を中心にさまざまな郭が重なり、掘割、井戸、馬冷やしの水溜りもあって中世城郭の原型をよくとどめています。南北朝の頃、小さな砦が作られたのがはじまりで、天文年間(16世紀初)に十市遠忠が一大城郭をを築いたと言われています。写真は龍王山(南城)の頂上三角点(585.7m)のある展望台。

死者の谷と呼ばれる龍王山西麓一帯

死者の谷と呼ばれる龍王山西麓一帯
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龍王山から山の辺の道近くの崇神天皇陵までの西側斜面一帯には、6世紀前半から7世紀後半にかけて、全国的にみても珍しい大規模群集古墳が築かれました。現在わかっているだけでも横穴式古墳300基、円墳300基の計600基もあると言います。龍王山から崇神天皇陵まで下りてきた時には、道中の夥しい古墳を見てきたせいか、起伏があればすべて古墳ではないかと訝るほどに。これまでの山旅にはない、なんとも不思議な雰囲気に包まれた一日、忘れがたい経験になるでしょう。

神々の流竄そのものの大和(おおやまと)神社

神々の流竄そのものの大和(おおやまと)神社
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崇神天皇陵から山の辺の道をまたいで、JR桜井線を天理方向へ少し歩くと、冒頭の長岳寺が当社の神宮寺となった大和神社があります。
主神の日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)は、大和本来の地主神。天照大神と同殿共床で奉斎されていましたが、崇神天皇がその神威をおそれて、天照大神を倭の笠縫邑に移されたとき、皇女の淳名城入姫命(ぬなきいりひめ)に勅して市磯邑(大和郷)に移されたのが当神社の創建の由来。平安初期までは伊勢神宮に次ぐ広大な社領を有し、朝廷の崇敬の的となった神社でした。

第二次世界大戦中には、戦艦大和がただ同名であるというだけの理由で、当社の祭神の分霊を艦内に祀っていたことから、昭和20(1945)年に沖縄沖で沈没した際に亡くなった2717名の英霊が末社・祖霊社に合祀。さらに昭和44(1969)年には、境内に「戦艦大和記念塔」が建立されます。そして、神社の原初の姿はことごとく失われ、現在では、戦艦大和の神社になってしまっています。
そんな歴史の皮肉が古式ゆかしい境内のそこここに散見されます。

おわりに

天理から桜井に至る山の辺の道周辺には、まだまだ見るべきところが手つかずのまま残されています。そんなところを少しずつ開発していきたいと思っています。
大和神社へ直接行くにはJR長柄駅の方が近く、長岳寺はJR柳本駅のほうが少し近いように思えます。
崇神天皇陵、長岳寺から龍王山往復は普通に歩いて約6時間の行程で長岳寺裏から登るほうが坂の勾配が緩く歩きやすいように思われます。

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掲載内容は執筆時点のものです。 2014/03/09 訪問

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