あなたの身近なアレが、実は北九州発祥だった!?〜北九・はじめて物語〜

あなたの身近なアレが、実は北九州発祥だった!?〜北九・はじめて物語〜

更新日:2014/07/23 18:06

北九州は古くから西の玄関口として、大陸との交易が盛んでした。そこで異国の文化と日本の文化が交錯し、人々は共存を図ろうとします。すると、一風変わった生活の知恵が生まれました。異文化の交流によって、驚くような発明も誕生したのです。普段何気なく暮らしているあなたの周りに、実は北九州発祥とされるものがたくさん!さあ、これらのルーツを辿る、北九・はじめて物語の旅へ出発しましょう!

誰もが知っている「焼うどん」。実は小倉のだるま堂から始まりました。

誰もが知っている「焼うどん」。実は小倉のだるま堂から始まりました。
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小倉の食の原点、台所と言われる「鳥町食堂街」。その入り口にこの「だるま堂」はあります。終戦直後、初代店主は焼きそばを作ろうと思い立つも、食糧難で焼きそばの麺が手に入りません。当時GHQから支給されるのは、小麦粉ばかりでした。そこで「干したうどん(いわゆる乾麺)」を茹でて使ったところ大人気に!それが「焼うどん」の始まりでした。その当時ガスも電気なく、練炭で鉄板を温めての調理には時間がかかり、茹で置きできない乾麺、さらに水不足の中での作業は大変だったそう。それでもうどんを使ったこの料理は、人気を博し爆発的に広まっていったのです。

小倉発祥の焼うどん、特徴はなんといってもソース味であるということ。考えてみれば、焼きそば代わりに考案したのですから、ソース味でも不自然ではありません。でも当時はモッチリしたうどんとソースの組み合わせ、きっと斬新だったのではないでしょうか?焼き目のついたモチモチ麺と香ばしいソースの香り、さらに小倉の地酒を使う、地産の削り節を使用するといった定義があり、今までにない小倉独自の焼うどんは完成しました。

その後だるま堂は2代目店主に引き継がれ、その店主さんも2005年に亡くなりました。現在は80歳を超えた奥様が、たったひとりでお店を切り盛りされています。味も材料も当時のまま、同じように乾麺のうどんを使って作り続け、今でも化学調味料は一切使用しないのだとか。そしてこのだるま堂を継ぐ人は、今のところ見つかっていません。

現在、JR小倉駅周辺から旦過(たんが)市場にかけて、焼うどんを食べられる店は20店舗以上。それぞれにソースの味やトッピングを変え、個性を打ち出しています。でも初めて焼うどんを考案し、守り続けている「だるま堂」。戦後から続くこの味が風化してしまう前に、ぜひ一度、味わってみてはいかがでしょうか?

急いで!日本最古の立体交差「折尾駅」は、今やその姿を変えようとしています!

急いで!日本最古の立体交差「折尾駅」は、今やその姿を変えようとしています!
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JR鹿児島線と筑豊線が交わる「折尾駅」。1891年、この2路線の駅が開業し、1895年に日本初の立体交差「折尾」駅ができました。1階に筑豊興業鉄道の駅舎、2階に九州鉄道の駅舎。「上も行く行く下も行く一度来てみよ折尾駅」という歌は、石炭産業が盛んだった当時作られたもの。

まだ石炭を船で輸送していたこの場所に、画期的な鉄道輸送が導入されます。しかも2路線を円滑に利用することを目的として、1階と2階に棲み分けたという斬新な駅。歌は、この最新輸送システムの導入、見たことのない駅のスタイルに、歓喜して歌われたものと言われています。

当時、筑豊地区からの蒸気機関車が頻繁にこの高架を通り、赤レンガで造られた橋桁の上部は、ススで黒ずんでいます。町が石炭産業でにぎわっていた、当時の面影を感じられるのではないでしょうか。

今では折尾駅とその周辺の整備が進められ、ルネッサンス様式で建てられた駅舎は、2012年解体を開始。化粧柱や円形ベンチなど折尾駅のシンボルとされていた部分だけが残され、現在、八幡西区役所折尾出張所内で展示・見学することができます。

今後、2020年までに、駅の高架下事業として鹿児島線、筑豊線及び短絡線が、同一フロアに並ぶこととなります。日本初の立体交差駅は、ここで姿を消すことになるわけです。折尾駅周辺ではまだ赤レンガでできた照明灯や「折尾隧道」と彫られた御影石の石版などが、モニュメントとして飾られ、「ねじりまんぼ」と言われる特殊工法で造られた煉瓦の3連アーチも、何とか解体を免れ残されました。ただこれも整備事業後、どうなるのか定かではありません。

解体と保存の押し問答が繰り返される中、大正時代からの貴重な歴史的遺産とその街並みは、近い将来大きく変貌を遂げることが予測されます。その前にぜひ、足を運んでください!ひとりでも多くのかたに、日本初の立体交差駅を目に焼き付けて欲しいのです。

天にかかる銀の屋根!?画期的・アーケード商店街!

天にかかる銀の屋根!?画期的・アーケード商店街!
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魚町を南北に通る「魚町銀天街」は、実はアーケード商店街の発祥なんです!北は小倉駅付近から、南は旦過市場の入り口につながるメインストリートであり、北九州の中心的商店街となっています。

元々、今から70年以上前、魚町は呉服屋さんが軒を連ねる街でした。さらに玄界灘で取れた魚のセリ市場ができ、物品の売買を主とする商店街ができ上がったのです。多くの人が集まるようになると、そこで「えびす市」といったお祭りが行われるようになります。

買い物客が雨に濡れず買い物できるよう。そしてお祭りの日には、天気を気にすることなく催行できるよう、アーケード構想が持ち上がります。ところが商店街の合間を縫っていた通路は市道であったため、その上に屋根を設ける場合は、市の許可も必要。ところが前例のない申し出ですし、安全面なども含めて、なかなか許可してもらえません。そこで商店主たちは、直接建設省に直談判!この強気な姿勢と情熱によって、1951年10月、日本ではじめて全長130mにも及ぶアーケード商店街が完成したのです!

当時はジェラルミン製の天井だったことから、「銀天街」と名付けられました。まさに「銀色の天」の名にふさわしい、輝きが天を覆ったのです!
今となってはあまりにも身近なアーケード商店街。でも発祥とされる「魚町銀天街」は、天井こそジェラルミンではなくなったものの、今もなお当時の面影を残しています。あなたの知っているアーケード商店街とは、また違った雰囲気ですよ!ぜひ味わってみてください。

日常に欠かせないスーパーは、なんと北九州発。しかも24時間営業のパイオニア!

日常に欠かせないスーパーは、なんと北九州発。しかも24時間営業のパイオニア!

昔は豆腐なら豆腐屋、肉なら肉屋、と欲しい物のお店をひとつひとつまわって、買い物をしていました。それを一か所にまとめて、買い物できるようにしたのが今のスーパーマーケットです。

これは大恐慌時代、アメリカで始めて実施されたシステムでしたが、それをいち早く日本で取り入れたのが、小倉にある「丸和フードセンター」でした!1956年、総合食料品店としてオープンし、商品をカゴに入れてレジに持っていくセルフサービス方式を導入。入口と出口を分けてお客さんの買い物をスムーズにしたのも、ここが初。

さらに1979年には、日本最初の24時間営業を開始。今でこそスーパーは当たり前のように、あなたの街にありますよね?24時間営業だって、珍しくありません。この形を、思い切って始めたときは賛否両論ありました。それでも、徐々に住民の方々に受け入れられ、利便性と効率化が好評を博します。いつでも欲しいものが手に入るスーパーの第一号がここに誕生したのです。まさにスーパー業界のパイオニアと言えるでしょう。

後に、流通業界の革命児と言われるダイエーの創業者・中内氏は、この丸和フードセンターから、さまざまなノウハウを学んだと言われています。そして約1年半後に、「ダイエー1号店」を大阪に立ち上げました。現在のダイエーの発展は丸和フードセンターなくしては、語れないのかもしれません。

小倉駅から歩いてくると、目の前には昔ながらの商店が立ち並ぶ旦過市場、隣には日本初のスーパーマーケット。当時にさかのぼると、新旧ふたつのシステムが仲良く並んで建っているのも、なんだか不思議な気がしませんか?どちらにも足を運んでみると、きっとその謎やそれぞれの魅力が見えてくるはずです。

少し足を伸ばして門司港名物・「焼きカレー」はいかが?

少し足を伸ばして門司港名物・「焼きカレー」はいかが?
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外国貿易が盛んだった門司港では、さまざまな異文化が流入し、街の繁栄とともに生活様式も多彩に変化していきました。異国から多くの人々が訪れる中、それに合わせて食も開発され、今までにないユニークなメニューが飛び出します。昭和30年代のことでした。門司港のとある喫茶店で、まかない料理として考案されたのが「焼きカレー」の始まり。それをお店で提供したところ、大好評!瞬く間に人気を博したのです。

ライスにカレーのルーを乗せ、卵とチーズをトッピングして焼きあげる。ありそうでなかったこのメニューは、国の内外問わず受け入れられます。その後、こぞって焼きカレーを提供するお店が出現し、やがて日本全国へと広まっていったのです。それ以来、門司港は焼きカレー発祥の地として定着。駅を降りると、あちこちにそののぼりが、風にはためいているのが目に留まるでしょう。門司港レトロと合わせ、名物「焼きカレー」を楽しんでみるのはいかがでしょうか。

おわりに

実はパンチパーマやバナナのたたき売り、競輪なども北九州発祥だって知っていましたか?今ではあたりまえのようにあるもの、今ではもう見ることのできないものなど、さまざまですよね。それでも変わることなく時は刻み続け、きっとこれから先、建物も風景も刻々と姿を変えていくことになります。そしていつ、消えてしまうかわかりません。何十年もの歴史を超えて現在にまで至ったけれど、体感できるのは今しかない!「北九はじめて物語」として、こんなテーマで巡り歩いてみるのも、また、面白いのではないでしょうか。

掲載内容は執筆時点のものです。 2014/06/26 訪問

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