写真:すがた もえ子
地図を見る河童がどこから来たのかは諸説あり、地域によって様々な伝承が残されていますが、ここ八代の河童たちは大陸から来たのだと伝わっています。
力のある河童の中には個人名を持つ者もいて、八代の河童を束ねていた「九千坊(きゅうせんぼう)」はその中でも特に有名です。
仁徳天皇の時代(313年〜399年)に大陸から九千匹の部下を引き連れて渡来し、播磨川に住んだと伝えられています。
九千匹もの河童が上陸する光景を目撃した人がいたかどうかはわかりませんが、想像するだけでももの凄い光景ですよね。
まさに河童だらけといった状態でしょうか。
現在は堤防などコンクリートで固められ、近代的に整備されている播磨川ですが、その川幅の広さのスケールは驚くほどです。
ちなみに河童(カッパ)は地方ごとに呼び名が変わり、熊本では「ガラッパ」または「ガワッパ」と呼ばれています。
写真:すがた もえ子
地図を見る前川橋のたもとに「河童渡来之碑」と書かれた石碑が置かれています。
特に施設の敷地内や私有地などではなく、堤防の道沿いにあるので、時間を気にせずに見学できるのはうれしいところ。
ただし道路沿いですので、車の往来には気をつけて見学してください。
二つの石を組み合わせてあるのが河童渡来之碑。
石の表面には、「中国から九千匹の河童が海を渡って八代にやってきた」という内容が書かれています。
大陸から渡ってきた河童たちは、イタズラを繰り返したあげくに捕まり、「この石(渡来碑)がすり減るまで悪さはしない」と誓ったのだとか。
九千坊とその手下たちを懲らしめたのは、加藤清正だとも伝わっています。
お気に入りの小姓を河童に水中へ引き込まれた清正は、激怒して河童の嫌いな猿を九州中からかき集め、襲いかからせたのだとか!
加藤清正公は虎退治で有名ですが、河童まで退治していたんですね。
降参した河童たちは久留米(福岡県)の有馬公の許しをもらい筑後川に移り住んだ後、改心して水天宮の使いを果たすようになったそうです。
写真:すがた もえ子
地図を見る碑に刻まれているオレオレデーライタとは「呉(中国)からよくいらっしゃいました」というような意味だそうです。
「オレオレデーライタ川祭り」は子供の水難防止を祈願するもので、河童がイタズラをしないなら代わりに供え物をと約束したのが始まりと言われ、毎年旧暦の5月5日に行われて来ました。
現在は6月の第1日曜日に変更されましたが、子供たちの手により今へ受け継がれています。
写真:すがた もえ子
地図を見る渡来碑の周囲は、たくさんの河童のオブジェなどが出迎えてくれます。
中には「河童九千坊音頭」の歌碑まで!
歌が作られてしまうほど、八代の河童たちは愛されているんですね。
町の中を歩いていても、あちらこちらにガラッパを見かけて楽しくなります。
今回ご紹介した河童渡来の碑。
この地に根付き受け継がれる河童の伝説は、古き良き日本の伝承をかいま見せてくれる気がします。
河童は文字通り妖怪としての河童とは別に、実は海を渡ってきた渡来人だったのでは、という説もあります。
どちらにしても、歴史のロマンを感じますね。
河童の名産地ともいえるほど数多くの河童伝承が残る九州で、その足跡を追いかけてみるのもおもしろいかもしれません。
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(2024/4/24更新)
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