写真:乾口 達司
地図を見る旧陸軍大刀洗飛行場の歴史は、大正時代にさかのぼります。飛行場の完成は大正8年10月。大正末期には日本最大の航空部隊が駐屯する飛行場となりました。昭和10年代に入ると、陸軍航空兵に対する飛行機操縦教育の拠点ともなり、後に特攻隊員となる多くの飛行兵が当地から巣立っていきました。陸軍における特攻隊の出撃基地といえば、知覧基地を思い浮かべる人も多いでしょうが、大刀洗飛行場から、直接、出撃していった隊員たちもおり、当館を訪れてはじめてその事実を知る人も多いはず。しかし、そのような重要拠点ゆえに当地はアメリカ軍の格好の標的となり、昭和20年3月27日と31日、飛行場とその周辺地域はB29の爆撃によって壊滅的な被害を受けました。空襲の際、児童をふくむ数多くの民間人も犠牲になっており、当地において、輝かしい栄光は凄惨な悲劇と表裏一体の関係にあったことがうかがえます。
大刀洗飛行場の歴史を顕彰すべく、地元の有志の尽力によって記念館がオープンしたのは昭和62年。平成21年には公営の記念館として再出発しています。現在、館内には飛行場の歴史を紹介した資料のほか、大戦中の資料が数多く展示されていますが、なかでも、写真の零式艦上戦闘機(零戦)三二型は当館ならではの展示品であるといえるでしょう。当機は第二五二海軍航空隊の所属機で、戦後、マーシャル諸島のタロア島で発見されたもの。三二型の製造数は343機体にのぼりますが、現存するのは当機のみ。当時の日本の航空技術の高さを知るためにも、当館を訪れたら、ぜひ、ご覧ください。
写真:乾口 達司
地図を見る三二型を見学する際は、その脇に設置された階段をのぼり、展望スペースから、三二型の操縦席をのぞいてみましょう。もちろん、長い年月を経ていることもあって、失われた部品も多いのですが、それでも計器板や操縦桿などがちゃんと残されており、実物ならではの迫力を実感することができます。果たして、この操縦席のなかで航空兵はいったい何を思っていたのか。操縦席を目にしながら、みなさん、それぞれが航空兵の心情に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。ちなみに、当館には、平成8年、博多湾から引き揚げられた九七式戦闘機乙型の実物も展示されており、三二型ともども、その迫力に圧倒されるでしょう。
写真:乾口 達司
地図を見る館外の一角には、その表面に「陸軍」と記された、写真の石標が立てられています。その高さは30センチあまり。実はこれ、陸軍用地境界標と呼ばれる石標なのです。陸軍の用地とそれ以外との境界を指し示すために打ち込まれたもので、現在までのところ、15箇所から47本の境界標が見つかっています。写真の境界標は保存目的で当館敷地に移設されたものですが、あまりに小さいため、その存在に気づかない人も多いはず。見落とさないように注意しましょう。
写真:乾口 達司
地図を見る写真は記念館の入口部分に設置された門。昭和14年に開隊した第五航空教育隊の正門で、平成22年、近くから移設されたものです。第五航空教育隊には、最大時、6千名もの航空技術兵が在籍しており、その数からも大刀洗飛行場およびその周辺施設の規模の大きさがうかがえますね。
写真:乾口 達司
地図を見る大刀洗平和記念館の正面に位置するのが、甘木鉄道太刀洗駅。そこにかつての駅舎を改造してオープンしているのが、太刀洗レトロステーションと呼ばれるミニ博物館です。実は、平成21年、大刀洗平和記念館が現在の地で再始動するまではここが記念館として活用されていたのです。当時、展示されていた資料は新館の方に移されていますが、館内にはいまでも昭和史を物語る生活必需品などが所狭しと並べられており、昭和の時代風俗を知るのに欠かせないスポットとなっています。戦時中、多くの関係者が使った「線路地下道」も保存されており、戦地へと旅立つ兵士たちがここで家族との別れを惜しんだかと思うと感慨深いものがあります。ちなみに、屋根の上にあるのは航空自衛隊所属のT33JET練習機。さすがは大刀洗飛行場ゆかりの駅だけのことがありますね。
大刀洗平和記念館が伝える戦争の歴史とその悲劇性が伝わってきたでしょうか。周辺にはほかにも飛行第四連隊の正門など、当時を伝える戦跡が幾つも残されており、時間の許す限り、あわせてめぐってみることをお勧めします。大刀洗平和記念館とその周辺を散策し、現代の平和が先人たちの礎の上に成り立っていることに、ぜひ、思いを馳せてみてください。
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(2024/3/29更新)
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