写真:乾口 達司
地図を見る奈良時代、大極殿は天皇の即位式や外国からの使節に対する賜饗の儀、元日の朝、天皇が群臣の拝賀を受ける朝賀の儀など、国家的行事に際して使用されました。平城宮に存在した2つの大極殿のうち、第一次大極殿は、平城京への遷都以降、天平12年(740)、都が恭仁京へ遷都するまでのあいだに使われた宮殿。平城遷都1300年の年に当たる2010年に復元されました。その規模は東西約44メートル、南北約20メートル、高さ約27メートル!その壮大な規模に圧倒される人も多いでしょう。
なかでも、私が注目したいのが、二層目の屋根の中央に取り付けられた宝珠形の飾金具。「大棟中央飾り」と呼ばれているもので、その源流は古代中国にあるとされています。古くは鳥形でしたが、隋代以降は宝珠形となり、その意匠も多様化。日本でも西大寺の薬師金堂の屋根に取りつけられていたことがわかっています。実は、この「大棟中央飾り」、平城宮跡からは発掘されていないのです。しかし、中国の最先端の文化を積極的に受け入れて律令国家の確立を目指していた当時の日本の先進性などを勘案し、復元に際して、法隆寺夢殿の宝珠を参考にしながら取り付けられることとなったのです。第一次大極殿の復元がこれまでの研究成果をふんだんに盛り込んだ上でのものであったことがうかがえるでしょう。
写真:乾口 達司
地図を見る内部でひときわ目をひくのは、天皇の玉座に当たる写真の高御座(たかみくら)。京都御所・紫宸殿の高御座をモデルにして復元されています。高御座が八角形なのは、道教をふくめ、古代中国の思想において「八」が聖なる数と考えられていたことと関係があるといわれています。飛鳥・白鳳時代に築造された天皇陵の多くが八角形であることも、その反映でしょう。八角形が天皇家にとってきわめて重要な意味を持つことが、高御座の形状からも推察できますね。
写真:乾口 達司
地図を見る内部に足を踏み入れたら、正面の高御座にだけ目を奪われず、ぜひ、天井にも目を向けてください。これまでの研究の成果にもとづき、部材は赤土である丹土や緑青で塗装され、天井板には蓮の花をモチーフにした紋様が彩色されています。小壁に四神や十二支が描かれているのも、おわかりになるでしょう。これは芸術院会員の画家・上村淳之氏の制作によるものです。
写真:乾口 達司
地図を見る細部にまでおよぶ意匠は、何も内部にだけ限ったことではありません。軒まわりの高欄には、ご覧のように、緑・黄・赤・白・黒という五色から成る宝珠が等間隔で取りつけられています。古代中国に由来する五行思想を具現化したものでしょう。木口に取りつけられた飾り金具も凝っていますね。ほかにも、四方の軒下には風鐸が取りつけられており、風の強い日には、カラン、カランという音を遠くまで鳴り響かせます。
写真:乾口 達司
地図を見る大極殿のもう一つの魅力は、その抜群の眺望!北から南へと緩やかに傾斜する地盤の上に巨大な基壇がすえられ、その上に建造されているだけあり、特に東・西・南方への眺望は素晴らしい!の一言に尽きます。写真は東方を撮影したものですが、若草山や春日山など、奈良の山々が連なり、その手前には奈良公園に隣接する市街地ものぞまれます。画面の左下に見える大屋根、これはいったい何だと思いますか?これは平城宮跡と同じく世界遺産に登録されている東大寺大仏殿です。
南方にはやはり復元された朱雀門が控え、天気がよければ、はるか遠く、吉野の山々まで見渡すことができます。西方には矢田丘陵や生駒山が横たわり、奈良の地が四方を山々でとりかこまれていることが実感できるはず。平城京が中国の都城・長安をモデルにして建設されたことはよく知られていますが、人為的に城壁(羅城)を構築して外敵の侵入をふせいだ中国とは異なり、自然の山々をあたかも巨大な城壁のように見なし、四方を城壁によってとりかこむようなことをしなかった点からは、平城京ひいては日本の古代都城ならではの特徴が見出せるでしょう。
第一次大極殿ならではの魅力がうかがえたのではないでしょうか。月曜日をのぞき、建物内は、日中、無料で公開されており、気軽に立ち入ることができるのも大きな魅力。平城宮跡を散策する折は、ぜひ足を運び、天平時代の宮廷世界をご自身の目で実感してみてください。
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(2024/3/29更新)
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