写真:村井 マヤ
地図を見るNHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」では俳優の吹越満さんが演じておられる足利義昭(1537-1597)は、兄の13代将軍義輝や母親が暗殺されるまでは、仏門に入っていたのです。悲しい政変が起こらなければ高僧として生涯を終えるはずでした。でも、世は戦国時代!信長の天下統一の野望に利用されます。しかし義昭は信長と仲たがいをして、天正4(1576)年に備後の国(今の福山市周辺)に、伊勢氏・一色氏・細川氏などの幕府の中枢を担った公達を伴って下向し、その地で幕府の役職任命なども行い、幕府としての権威を保ち続けていたのです。この備後下向で室町幕府が終了という見方もありますが、義昭は天正16(1588)年までは、征夷大将軍職にはあったと記録に残っていますし、鞆幕府は、立派に機能していたのでした。
鞆は、風光明媚な美しい街です。古い家々がいまだに残っておりたっぷり時間をかけて歩きたいものです。有名な常夜灯界隈には、「いろは丸展示館」などもあり、坂本龍馬が好きな方なら訪れたい場所ですよね。
鞆へのアクセス
バス・・鞆鉄バス利用、福山駅南口5番線より「鞆の浦・鞆港行」、時間は約30分。(詳しくは下記MEMO「鞆鉄道株式会社HP」参照)
自動車/タクシー・・福山駅から約25分。高速道路福山東ICから国道182号線約45分。
バス停鞆港で下車されたらまずは、「平成いろは丸渡船乗り場」へ行きましょう。そこで観光地図などを入手して、島全体がパワースポットという仙酔島に渡ってしばし散策してもいいでしょう。この島にある「国民宿舎 仙酔島」には、宿泊者以外でも利用できるお風呂もありますので夕方寄ってもいいですよね。その渡船乗り場の駐車場から見えるのが大可島(たいがしま)城跡と圓福寺です。
大可島はその名が示す通り昔は島でした。今は陸続きになっていますが、島だったころは、麓に元遊女の住居があり潮の干満に寄って渡れることもあったようです。最近できたホテル汀邸 遠音近音(みわぎてい おちこち)はその島のほとりにあった宿屋を改装して出来たものです。その優雅な佇まいは評判ですよ。その前を通り過ぎた辺りに圓福寺へ上る階段がありますので、登ってみましょう。途中猫に会えたり、素敵なカフェがあったりして雰囲気のある階段です。
下の写真は、仙酔島からの眺めで、手前が弁天島、その向こうにあるのが大可島城跡圓福寺です。右側の建物がホテルです。
写真:村井 マヤ
地図を見る大可島城は、南北朝時代の激戦もあった場所です。康永元(1342)年の中四国守護足利氏を中心とする北朝方と伊予の南朝方武士の戦いがありました。ここを拠点としていた備後の豪族桑原一族は全滅します。その桑原一族の墓が寺の入り口付近にひっそりと佇んでいます。
この場所は、瀬戸内海の要所であり、足利時代に中国探題を置くなど要所・要害としての役割を果たしました。城自体は、天正年間(1573-1591)までは村上水軍の要害でしたが、その後廃城となりました。その跡地に圓福寺が建てられ、江戸時代には朝鮮通信使の上官の宿泊所として使用されたり、幕末の「いろは丸沈没事件」の際には紀州藩の宿に使われた由緒ある寺です。また「森下仁丹」の森下氏の墓もあります。
(下の写真は、鞆城跡からの眺め)
写真:村井 マヤ
地図を見る大可島城跡を後にして、途中万葉の歌人大伴旅人の歌碑や対潮楼などを見上げながら鞆の浦のシンボル常夜灯方面へ進みます。江戸時代の雁木などが見受けられたら、今度は右へ「鞆の浦の力石」などを見ながら細い路地を抜けて少しだけ広い道に出ます。右に行くと鞆城跡(現在は「鞆の浦歴史民俗資料館」になっています)へ上る階段があります。
鞆城跡に行くと石垣が目に入ります。石垣を見ると、三角の図形や「大」「回」といった文字が刻まれています。何の刻印かは諸説あるようですが、当時の状況を示す大切な遺構ですね。ここには、毛利輝元が義昭のために建てた櫓などがあったようです。
下の写真は、雁木や常夜灯の近くにある「太田家住宅」です。江戸時代までは福山のお酒保命酒(下記MEMO参照。現在は4酒屋が営業でその一つを紹介。)の酒蔵をしていた豪商中村家の邸宅でした。屋敷内には幾つもの商談用茶室が設けられ、往時の繁栄を偲ぶことが出来ます。その豪華ぶりは素晴らしいので必見です。(詳しくは下記MEMO福山市観光HP参照)
また、足を延ばして寺通りに行くと、NHKドラマで別所哲也さんが演じた尼子の武将「山中鹿之助」の首塚もあります。「三日月の誓い」で有名で、武勇の誉れ高い武士として、後世に名を遺しています。
写真:村井 マヤ
地図を見る写真:村井 マヤ
地図を見る義昭が鞆城を後にして過ごしたのは、福山市津之郷町本谷の御殿山でした。実は、ここに住んだことを裏付ける史料は見つかっていないのですが、ここではないかと言われています。場所は津之郷小学校後方にある惣堂神社に隣接する山頂平地です。今はすっかり荒廃していて寂しい風情ですが、この地に義昭が住み鷹狩などに興じていたようです。秀吉は四国平定後、九州平定と朝鮮への戦いを視野に入れて毛利輝元に道路普請を命じます。輝元は、義昭と秀吉の対面を実現させるべく、新山陽道を御殿山の麓を通り三原を抜けるように建設しました。天正15(1587)年3月には秀吉と義昭は対面して講和が成立したのでした。
津之郷御殿山アクセス
福山駅から車で15分くらい。2号線から津之郷橋東詰を右に入り山陽道に突き当たり、そこから津之郷小学校を目指すと良い。小学校の近くには田辺寺があります。ここで秀吉と義昭は対面して講和を結びました。
天正15年10月、義昭は京都に帰還します。その後秀吉に1万石を与えられ、慶長2(1597)年8月、大坂で薨去します。享年61歳の波乱に満ちた生涯でした。
鞆の浦は、万葉の時代から栄えた美しい町です。雅な文化が栄え、歴史に名を残した人々が多く訪れた景勝地でした。万葉から幕末まで、あらゆる時代に鞆の浦は関わってきたのです。足利義昭もこの鞆の浦で、案外優雅に暮らしていたかも知れませんね。多くの芸術家や文人にも愛された鞆の浦で、義昭の足跡も辿りつつ、珠玉のような歴史のかけらを集めてみませんか?
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(2024/3/28更新)
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