写真:乾口 達司
地図を見る称名寺の石仏群を代表するのが、写真の「千体地蔵」。一つずつの石仏の大きさは4、50センチほどとそれほど大きいわけではありませんが、ご覧のように、その数の多さには圧倒されます。「千体地蔵」と名付けられてはいるものの、その数は何と1900体!その壮観な光景に圧倒される人も多いでしょう。
では、なぜ、境内にこれほどまでの数の石仏が集められているのでしょうか。これらの石仏群、実はかつて戦国武将・松永久秀によって築城された多聞城の城壁に使われていたものなのです。戦国の梟雄とも怖れられた松永が大和国に侵攻し、称名寺の北東に位置する眉間寺山(現在の若草中学校)に多聞城を築きはじめたのは、永禄3年(1560)のこと。築城に際して、近郷近在から石材がかき集められ、そのなかにはたくさんの石仏もふくまれていました。多聞城は松永の勢力衰退にともなって破却されますが、破却から約百年後の貞享年間(1684−1688)、称名寺の観阿上人が城跡付近に散乱していたこれらの石仏を境内に集め、合祀したのが「千体地蔵」のはじまりであるといわれています。安土城の造営にも大きな影響を与えたとされる多聞城。その遺構の一部が「千体地蔵」であったとは、驚きですね。城郭マニアの方にもご覧いただきたい石仏群です。
写真:乾口 達司
地図を見る裏手の墓地からは「千体石仏」が並ぶ石垣の側面を見ることができます。写真はその一部分ですが、組み込まれている石材をよくご覧ください。積み石のなかにお地蔵さまを彫った石材が混じっているのが、おわかりになるでしょう。その横の「南無阿弥陀仏」という文字が刻まれた石は、誰かの墓石でしょうか。ほかにも、石塔の一部と思われるものまで組み込まれていますが、「千体地蔵」も多聞城の城壁にこのように使われていたのでしょう。それにしても、多聞城の石垣に使われていた石仏群を集めて祀った「千体石仏」、その石仏群を並べている石垣に石仏や墓石が使われているというのは、何とも皮肉ですね。
写真:乾口 達司
地図を見る称名寺に残る石仏は、何も「千体地蔵」のような小さな石仏だけではありません。「千体地蔵」のすぐそばに立つ覆屋には、4体の大型石仏が並んでいます。写真の一番手前は等身大の像高を持つ阿弥陀如来立像。頭上には蓮華の紋様を刻んだ頭光がくっきりと残されています。それ以外の3体はいずれも地蔵菩薩立像。阿弥陀菩薩立像の横に立つ地蔵菩薩立像には「大永七年三月五日」の銘が刻まれており、戦国時代中期の作であることがうかがえます。写真では見づらいかと思いますが、錫杖の上部に五輪塔を刻んでいるのも、珍しい造型です。残る2体は損壊が著しく、痛々しいお姿をしていますが、それだけにそれぞれの石仏が歩んできた苦難の道のりがしのばれます。
写真:乾口 達司
地図を見る墓地には、近年建てられた真新しい墓石に混じって、時代を感じさせる石塔も点在しています。写真の五輪塔の総高は2メートル10センチあまり。堂々たる大型の五輪塔ですが、なかでも注目したいのは、五輪塔を支える基壇の反花座と方形の地輪とのあいだに穿たれた小さな穴。いったい、この穴、何だと思いますか?実は、火葬後、砕いた骨を五輪塔の内部(塔の下)に挿入するためにしつらえられたものなのです。こういった穴をしつらえた五輪塔には何代にもわたって骨片が挿入されたと考えられていますが、市街地に残る石塔類にはきわめて珍しい意匠なので、称名寺を訪れたときには忘れずにご覧ください。
写真:乾口 達司
地図を見る本堂の脇には写真の十三重石塔と宝篋印塔も立っています。十三重石塔は保存状態がよく、屋根と屋根との間隔が狭いこともあってか、重量感を感じさせます。宝篋印塔は鎌倉時代以降に作られるようになった石塔のスタイルですが、こちらのものは、その形状から見てかなり時代が下ると思われます。こうやって見てくると、一口に石塔いっても、さまざまな種類があることがわかりますよね。
称名寺がいかに数多くの、そして、さまざまな石仏や石塔を有しているか、おわかりになったのではないでしょうか。石仏や石塔というと、街中から離れた辺鄙なところにぽつんといっているというイメージがありますが、ここ、称名寺は近鉄奈良駅から徒歩十分ほどのところにあり、アクセスも便利。特に石仏・石塔好きの方は奈良散策の折に訪れてみてはいかがでしょうか。
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(2024/4/19更新)
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