古代の悲しい恋物語!手児奈伝説ゆかりの市川市 弘法寺

古代の悲しい恋物語!手児奈伝説ゆかりの市川市 弘法寺

更新日:2014/06/26 18:25

乾口 達司のプロフィール写真 乾口 達司 著述業/日本近代文学会・昭和文学会・日本文学協会会員
『万葉集』といえば、当時、都が置かれていた奈良およびその周辺地域を舞台にした歌集であると連想する人が多いでしょう。しかし、奈良から遠く離れた千葉県にも『万葉集』を代表する名歌が残されています。その歌の主人公は手児奈(てこな)といううら若き女性。今回は手児奈ゆかりの地に立つ市川市・弘法寺を訪ね、古代人の涙を誘った悲しい恋物語に思いを馳せてみましょう。

都人の涙を誘った手児奈伝説とは?手児奈の菩提を弔うために建立された真間山弘法寺

都人の涙を誘った手児奈伝説とは?手児奈の菩提を弔うために建立された真間山弘法寺

写真:乾口 達司

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伝説によると、手児奈は現在の市川市真間の地に暮らしていました。その容姿がとても美しかったため、多くの男性が手児奈に恋心を抱き、それが原因で男性たちの争いがたえなかったほどでした。男性たちが醜い争いを続けるなか、手児奈は次のような感慨を抱きます。「自分の心は幾つにでも分けることができる。しかし、身体は一つしかない。もしも、自分が誰かのもとに嫁げば、ほかの人を不幸にしてしまう」。夕陽が海の下へと沈んでいくのを目にした手児奈は我が身に絶望し、海に身を投げてしまったのでした。手児奈の悲劇は遠く都にまで届き、都人はその話に涙したといいます。『万葉集』に手児奈の恋物語を題材にした歌が複数収録されていることは、その証であるといえるでしょう。たとえば、『万葉集』を代表する歌人の一人・山部赤人は次のような挽歌を詠んでいます。

古に 在りけむ人の しつはたの 帯解き交へて 伏屋立て 妻問しけむ 葛飾の 真間の手兒名が 奥津城を こことは聞けど 真木の葉や 茂くあるらむ 松が根や 遠く久しき 言のみも 名のみも吾は 忘らえなくに(巻4 No.431)

(現代語訳:いにしえの人が倭文織の帯を解き交え、寝屋を作って求愛したという葛飾の真間の手児名のお墓はここだとは聞くけれど、真木の葉が茂っているからだろうか、松の根が延びるくらいに久しい昔のことだからか、お墓が本当にここなのかわからない。しかし、いい伝えだけでも、その名前だけでも、私は忘れることが出来ないよ)

真間山弘法寺(ままさんぐぼうじ)の創建は奈良時代。寺伝によると、奈良時代の高僧・行基が手児奈の霊を弔うために創建したのがはじまりであるといわれています。鎌倉時代以降、地元の豪族・千葉氏の庇護を受けて発展。真間宿と呼ばれる門前町が形成されるほどの賑わいを見せました。写真は仁王門。仁王門に掛かる「真間山」の額は空海が記したものと伝えられています。

良縁・子授け・安産・健児育成の守護!手児奈の霊をまつった手児奈霊神堂

良縁・子授け・安産・健児育成の守護!手児奈の霊をまつった手児奈霊神堂

写真:乾口 達司

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現在、手児奈は弘法寺の門前脇に立つ手児奈霊神堂にまつられています。創建は文亀元年(1501)。弘法寺の第7世日与聖人の夢枕に手児奈が立ち、良縁・子授け・安産・健児育成などの守護を誓ったことにちなみます。現在も良縁や安産祈願などで訪れる人が多く、その入水から千年以上の歳月が流れているにもかかわらず、手児奈がいかに地元の人たちに愛されているか、おわかりになるでしょう。

手児奈が水をくんだ!?亀井院境内に残る真間の井

手児奈が水をくんだ!?亀井院境内に残る真間の井

写真:乾口 達司

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手児奈霊神堂の向かい側に立つのは、弘法寺の塔頭・亀井院。本堂の裏手には「真間の井」と呼ばれる古井戸が残されています。「真間の井」は、その昔、手児奈が水をくむときに使った井戸といわれており、そのことは『万葉集』におさめられている高橋虫麻呂の次の歌からもうかがえます。

勝鹿の真間の井を見れば立ち平し水汲ましけむ手兒奈し思ほゆ(巻9 No.1808)。

(現代語訳:葛飾の真間の井を見ると、その地が平らになるほど何度も通い、水を汲んだ手児奈のことがしのばれる)

「真間の井」を実際に目にしながら、虫麻呂の歌を思い浮かべると、せっせと水をくむ手児奈のひたむきな姿が目に浮かんでくることでしょう。

手児奈伝説とセットで!歌川広重も描いた真間の継橋

手児奈伝説とセットで!歌川広重も描いた真間の継橋

写真:乾口 達司

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弘法寺にいたる参道には「真間の継橋」と呼ばれる橋が残されています。「真間の継橋」は『万葉集』に詠まれた当地きっての歌枕。それは次のような歌です。

足の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ(巻14 No.3387)

(現代語訳:足音も立てずに歩く馬が欲しいなあ。そうすれば、葛飾の真間の継橋を音も立てずに渡り、やむことなく、恋する人のもとに行くものを)

歌中で詠まれている恋する人が手児奈を想定したものであるとも読めることから「真間の継橋」はしばしば手児奈伝説とセットで題材化されています。その代表的な作品として、ここでは歌川広重の『名所江戸百景』におさめられた「真間の紅葉手古那の社つぎ橋」を挙げておきましょう。残念ながら、現在、橋の下には川が流れておらず、あたりも住宅地に変貌していますが、古来、多くの歌人に親しまれてきた歌枕だけに、ぜひ、当地に立って『万葉集』の時代に思いを馳せてみてください。

おわりに

弘法寺の地が千葉県を代表する『万葉集』ゆかりの地であることが、おわかりになったのではないでしょうか。ほかにも、弘法寺にいたる参道には万葉歌を紹介した掲示板がたくさん掲げられており、手児奈伝説がいまなお多くの人を魅了していることがおわかりになるはず。実際に当地を散策し、手児奈の悲劇に思いを馳せてみることをお勧めします。

掲載内容は執筆時点のものです。 2014/06/01 訪問

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