飛鳥時代に日本に伝わり平安前期に広まった仏教は、現世での救済を求めるという考えであった。しかし平安時代後期になると、日本では「末法思想」が広く信じられるようになっていた。末法思想とは、お釈迦さまの入滅から2000年目以降は、廃れてしまうだろうという思想である。
ちょうどその頃には天災や人災が続いたため、人々の不安は一層深まりこの世の終わりとさえ言われるようになった。そんな不安から逃れるように、仏教の思想も現世での救済から来世での救済へと変わっていくこととなった。
平等院が創建された当時の思想ではまさに「末法」の元年に当たり、当時の貴族は極楽往生を願い、西方極楽浄土の教主とされる阿弥陀如来を祀るお堂を建てるようになった。
平等院鳳凰堂は、まさにその象徴といえる建物なのだ。
これは平安時代に歌われていた童唄。もしも阿弥陀がおわす極楽浄土を疑ったり、信じられなくなったならば、宇治の平等院へ行き拝んでみると、もう一度信じ直すことができるという意味である。
「感無量寿経」という経典によると、極楽浄土はその様子を見るだけで心が清らかになり悟りの境地への道が開かれると説いている。しかし見たいと思ったからといって、そう簡単に見られるものではない。
少しずつその姿を、頭の中に具現化する訓練をしていくことで、最終的に浄土の世界に辿りつくことができるとされている。
この鳳凰堂が、可能な限りリアルな極楽浄土を表現するべく、堂内には金箔、螺鈿、宝石、そして極彩色を使った装飾をされていたのには、このような意味が込められている。
現状は装飾のほとんどが剥落してしまい、かつての名残を留める程度となってしまっているが、堂内を見学することもできるのは嬉しいことだ。(但し別料金)
本尊の阿弥陀如来座像は、阿字池ごしにそのお顔を拝することができる。仏師・定朝(じょうちょう)の確証ある唯一の遺作であり、小さな木のパーツを組み合わせて作る寄木造り工法の原点ともいえることからも貴重な存在。
また堂内の壁には52体の雲中供養菩薩像が、楽器を奏で、舞い、そして祈りを捧げる姿などで表され、阿弥陀如来と共に我々衆生を極楽浄土へと誘う。
かつては本尊の頭上に、黄金に輝く二重の天蓋が施され、安置する須弥壇には螺鈿や飾金具で隙間なく装飾され、扉や壁や天井や柱までもが極彩色の絵画、彩色文様が施されていた。これは暗い堂内を少しの明りで眩いばかりの輝きを演出するためのものであった。
それらは想像を絶する美しさであり、平安時代の貴族の中に育まれた芸術的センスと感性もさることながら、極楽浄土への思い入れも相当なものであったことが想像できる。
阿弥陀堂がいつしか鳳凰堂と呼ばれるようになったのは、南北両端部に設置されている鳳凰像のおかげだと思われるが、このたびこの像も鍍金が施されて当時の姿に甦った。
鳳凰というのは古代中国の想像上の鳥であり、立派な天子が世に出たときにめでたいしるしに出現するとされている。 そして本来「鳳」は雄、「凰」は雌のことをさす。 北の像は98.8cm、南の像は95.0cmの高さなのでおそらく北が鳳で、南が凰ということなのだろう。
阿弥陀堂の創建と同時期に作成されていると考えられている。木から造られる仏像に対して、こちらは青銅の鋳物という違いはあるが、寄木造りと同じように頭部・胴部・翼・脚部の各部は別々に鋳造され、銅板製の風切羽と共に鋲で留められ組み立てられている点では共通していることから、鳳凰像も仏師・定朝らによって原形が製作された可能性が高い。
屋根上に輝く像はレプリカだが、オリジナルの鳳凰像は併設されている鳳翔館にて展示されているので、鳳と凰の違いをじっくりと観察してみて欲しい。
平等院・鳳凰堂と聞くと「10円玉」のデザインを思い浮かべる人が多いと思うが、実は2004年(平成16年)11月1日にマイナーチェンジして発行されている現行の1万円札の裏面に描かれているのも平等院の鳳凰像なのである。
京都や奈良の伝統的建造物をはじめ、国内には素晴らしい建物がたくさんあると思うが、この鳳凰堂だけで2つも選ばれているということからも、ここがいかに素晴らしい場所なのかお分かり頂けることと思う。
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