敷地面積約40ヘクタールを誇る三内丸山遺跡。2000年には国の特別史跡に指定されました。
それもそのはず、ここ三内地区では瓦や土偶が発見されたことにより5000年以上も前の集落を再現しています。社会科の教科書でしか目にしたことのない竪穴式住居、実物を見たことがありますか?
施設内にある約1メートルほどのトンネルを抜けると、目の前には青々とした広い敷地が広がります。遠くには八甲田山が見え、自然に囲まれた集落です。標高が20メートルと小高い丘の上にあるため、鳥のさえずりや、風の音がいつもより鮮明に聞こえてくる気がします。まるで5000年以上前もこうだったかのよう。
敷地内でまず目に止まるのは大型掘立柱建物跡。地面に穴を掘り柱を建てて造られました。柱穴は直径約2メートル、深さ約2メートルと集落で一番高い建物です。
そして竪穴住居が幾つもあります。縄文時代の住居は地面を掘り込んで床を造りました。集落の中央には大型竪穴住居があり、いわゆる共同住宅もしくは集会場の役割をしていたと言われています。
この時代の集落にも道路が存在。中心部から海に向かって幅約12メートル、長さ420メートルの広々とした道路です。
広大な集落だったことが想像できましたか?
先人は、釘を使わず木の組み方を変えたりひもで縛り頑丈にし、わらぶき屋根で寒い冬でも暖が取れて、なおかつ通気性抜群。土を掘っては保冷庫代わりに、また埋葬にも使ったり。石をこすり合わせて火を起こすのはお手の物だったのでしょうね。
これらの生活の知恵は、現代人ではとても思いつかない技ばかり。冬には防寒と暖、夏には風通し良くと自然の摂理に合った工夫も先人のなせる技です。
竪穴式住居跡の中に入ることができるのですが、柱には釘がなかったですし、どことなくひんやり涼を感じます。
さてこの三内丸山遺跡ですが、江戸時代には既に遺跡の存在が知られていて、永禄日記という弘前藩が書いたとされる日記に克明に記されています。日記には土偶の発見が書かれているそうです。そこから100年以上の歳月を経た1900年代後半に野球場建設の調査のため入った現代人が集落跡地を発見。野球場建設どころではありません、ようやく遺跡として認知され保存する動きとなり今に至ります。
さらに、そこから十数年後の2000年を過ぎた現在では、世界遺産登録を目指す動きがあります。これらの貴重な資源の保存状態を長く保つために、手入れが施されています。
世界遺産登録される前の今は、入場料無料ですし人の混雑もなくゆっくり縄文時代の生活に浸ることができますよ。
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(2024/4/20更新)
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