お江戸へタイムスリップ・京都の蕪村の風景

お江戸へタイムスリップ・京都の蕪村の風景

更新日:2014/05/30 11:33

画俳二道を貫いた蕪村は、30代半ばで京都へ戻り、68歳で死ぬまでここで暮らしました。そんな蕪村がぶらり歩いていそうな京都を訪ねてみましょう。

烏丸四条の蕪村・終焉の地

烏丸四条の蕪村・終焉の地
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阪急烏丸四条駅の周辺は、初老の40歳を過ぎてから、僧籍を捨て還俗して妻帯、一女をもうけた蕪村が、狭いながらも小さな我が家を構えたところ。銀行や百貨店のビルの建ち並ぶ街角から少し入った横町には、当時の裏店(うらだな)の風情が残っています。
烏丸駅から町並みを楽しみながら南に小さな通りを二筋ほど下ったところには、蕪村終焉の地の石碑があります。現在の下京区仏光寺通烏丸西入る南側・釘隠町。
ここで蕪村は一人娘くのの習い始めた琴の音に悩まされながら、絵に没頭する日々を過ごしました。彼が夜半亭2世を継いだ55歳の明和7(1770)年には、手狭になったのでここから綾小路下る白楽天町に引っ越していますが、その時作った俳句が残っています。
「釣りしのぶかやにさはらぬ住まいかな」
引っ越し先が、軒先に吊り下げた釣りしのぶに蚊帳がふれないくらいの広さになって、やっと人心地のする処に変われたなとよろこんでいるくらいですから、現在は和装の商社となっている写真のような見事な建物には程遠いものだったと思われます。
でもこの界隈には、江戸期より連綿と続いている市井の匂いが確かに残っています。

祇園のただ中を流れる白川の小流れに沿って

祇園のただ中を流れる白川の小流れに沿って
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蕪村の生きる執念とも言うべき、その凄いエネルギーには本当に驚かされますが、死ぬ数年前になって祇園の小糸という二十歳前後の芸妓に恋をします。
「妹が垣根三味線草の花咲きぬ」
しかし、当時から祇園は貧乏絵描きには敷居が高く、いきおい小糸の住まうあたりを徘徊するだけ。好きな女の家の垣根にはしゃみせんぐさ(なずな)の白い花が咲いているよ、なんてしおらしい作品を残しています。
そんな老いらくの恋に舞い上がる蕪村が通った祇園は、阪急四条河原町を出て鴨川を渡ってすぐ北、鴨川へ斜めにそそぐ白川沿いの石畳の風情ある通りを中心に広がっています。

びっくり仰天のスケール・知恩院

びっくり仰天のスケール・知恩院
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祇園白川を通り抜け、東山のふもとに突き当たると、まさに威風堂々たるたたずまいの大寺院が視界をさえぎります。法然入寂の地に建てられた、全国に6900余りの寺院と約600万の信者を抱える浄土宗総本山・知恩院です。
華頂山の額が懸げられた三門は1621(元和7)年、徳川秀忠によって建立されたわが国最大の木造二重門(国宝指定)。
この寺は、青年の蕪村が浪花の毛馬村を出奔して江戸へ行くまでの数年間、剃髪の上、釈信章(しゃくしんしょう)の名で徒弟生活を送った可能性が高いところ。俳諧の手ほどきも徒弟仲間からここで受けたと思われます。
見事な庭園をはじめ、境内のほとんどは特別拝観で期間も限られているこの知恩院。しかし、北隣には、楠の大樹で有名な青蓮院門跡寺院、南隣には八坂神社があり、もっとも多感な時期をこの地で過ごした蕪村が、30代半ばの宝暦年間に再び京へ戻ろうと決めた原風景がここにあるように思えます。

まとめとして

蕪村の青年期、そして宝暦から天明の初老以後の老年期を過ごした京都は、芭蕉の生きた元禄につぐ、江戸時代の2度目のバブル期でした。
彼の同時代人には、池大雅、円山応挙、伊藤若冲などが同じ京に居てしのぎをけずっていましたが、彼の場合、絵師や俳諧師としては、他の3人とは異なり、師系もなくすべて独学でしたので、終生在野のままだったことはとても大きなハンディだったとおもえます。しかし、そんなことをものともせずに彼が最晩年まで過ごした京都は、彼の生きた時代の面影を色濃く保ってくれています。
京都は、町並みをぶらり歩くだけであらゆる時代にタイム・スリップすることができる特異なスポットです。どうぞ、一度何の変哲もない街角をぶらり散歩してみてください。

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掲載内容は執筆時点のものです。 2014/05/24 訪問

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