写真:井伊 たびを
地図を見る旧河原邸は、禄高三百石以上の藩士が居住したとされる大屋敷である。三百石といえば、現在のサラリーマンの年収に換算すれば1,500万円程度だ。「天保の御制」では、建坪は39〜63坪まで、門は腕木門または長屋門で、玄関は2間。畳は近江表へり付きと厳しく決められていた。
武家屋敷は、意外と質素である。武家屋敷の大半は、材料・規模ともに必要最小限に抑えられている。これは、造作が基本的に藩によっていることが影響している。当時のおサムライさんは、転居することが多かった。住居はそのままで、身ひとつで移り住んでいたようだ。
こちらは、佐倉に残されている武家屋敷の中で、最も古いものだと思われている。残念ながら、室内にはあがれないが、板間には当時の調度品などが並べて飾ってある。外側から江戸時代の武士の生活に思いをめぐらすことができる。
写真:井伊 たびを
地図を見る旧但馬家は、旧所在地に復元整備されている。そのため、建物はもちろん屋敷地の形状や植栽に武家屋敷の特徴を色濃く残している。この住居は、室内にあがれるので、部屋の雰囲気をゆっくり味わい、当時のおサムライさんの心境を想像してみてはいかがだろうか?
こちらの住宅は、禄高百石以上(サラリーマンなら、年収500万程度)の武士が、住んだとされる中屋敷だ。27坪〜33坪の建坪で、長押は座敷でも制限されていたようで、室内はより質素な趣である。
ちなみに長押(なげし)とは、日本建築に用いられる部材で、柱を水平方向につなぐもの。鴨居の上から被せたり、柱間を渡せたりするように壁に沿って取り付けられる部材のことだ。
居住様式の制限は、門構えにも細かく及んでいた。開き戸脇の立て板の枚数まで、大屋敷は4枚で、中屋敷は3枚、小屋敷にいたっては設置することすら許されていなかった。その様子を3棟で見比べてみるのも、訪れてみる楽しみのひとつだ。
写真:井伊 たびを
地図を見る佐倉の武家屋敷は、道路に接する部分を正面とし、門を設け、敷地と道路の境界に土塁と生垣を築き、その奥に玄関や庭を設けるのが一般的だった。屋敷の裏側に菜園などを設け、屋敷と屋敷の境には木が植えられ、背後の斜面は竹林となっている。
江戸時代の武家屋敷は、ほとんど藩が所有し、藩士に貸し与えたもの。藩主は職務内容や禄高に見合った住居に住んでいた。そのため、藩士の身分の変化や藩の転封によって、転居する機会が多かったようだ。
ちなみに、この屋敷の茅葺きは20年に一度行われるそうだが、2014年に1,500万円かけて葺き替えを行ったところだと聞く。
写真:井伊 たびを
地図を見る残るは1棟。旧武居家住宅は、「居住の制」における百石未満(サラリーマンなら、年収500万未満)の藩士が住む小屋敷の規定に合致している。3棟の中でも、格段と質素な佇まいである。24坪内外の建坪で、門は木戸門のみで脇板はなく、玄関は箱段のみだ。畳は七嶋表に限り許され、へり付は玄関と座敷のみ、その他はへりなしと規定されていた。
こちらの住宅内には、武家屋敷地から出土した昔の陶磁器や藩主の生活に関する資料が展示されている。見逃さないようにしよう。
写真:井伊 たびを
地図を見る江戸時代とほとんど変わらない佇まいを残すといわれる「ひよどり坂」。鬱蒼とした竹林を、緩やかにカーブしながら抜け、この坂を登りきれば、武家屋敷通りに出られる。
坂道の途中に設けられた縁台に腰掛けて、竹林からすり抜けてきた風を味わえば、ひょっとして江戸の香りがするかも?
坂道には、要所要所に竹垣が設えてある。四ツ目垣あり、御簾垣あり、そして鉄砲垣はどこに?と確認しながら登れば、どこからともなくおサムライさんが現れそうな雰囲気だ。
佐倉武家屋敷群に訪れるなら、無料ガイドさんの案内が受けられる、土・日・祝日をオススメする。ボランティアで活躍されているガイドさんの巧みな説明を聞きながら見学すれば、興味が何倍も増し楽しいひとときがすごせる。
もしも、平日ガイドさんをお願いするのなら、訪問の2週間前までに佐倉市教育委員会文化課(TEL.043-484-6192)に連絡予約が必要だ。
車なら旧武居家に隣接して、10台程度の無料駐車場はあるが大型は不可だ。武家屋敷通りは、住宅街だから道幅があまり広くない。
市内観光用として、レンタルサイクル(一回¥500)が、5ヶ所で貸し出しされている。佐倉城址公園、旧堀田邸、など「サムライのまち佐倉」を爽快に風切って、堪能するのもオススメのひとつだ。予約は、サンサンサイクル(TEL.043-487-3111)ほかへ。
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(2024/3/29更新)
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