大阪城の南側にある難波宮跡公園(なにわのみやあと公園)。その中に大極殿(朝廷の正殿)が復元されています。『日本書紀』には記載があったけれど、ずっと幻の宮だった難波宮。昭和29年から開始された、山根徳太郎を中心とする発掘調査により、飛鳥から奈良時代にかけて前後2期の難波宮跡が確認されました。
前期難波宮は「大化改新」ののち、孝徳天皇により造営された難波長柄豊碕宮と考えられ、後期難波宮は聖武天皇によって再建された難波宮と考えられています。
公園の中央北寄りにある、復元された広々とした大極殿の上段からは大阪城を一望できるだけではなく、周りの光景が360度見えます。広々とした緑の生い茂る公園の中にある大極殿、そんなに高さがある訳ではないのに、優越感に浸れてしまう。それはやはり大極殿の魔力でしょうか。
中央大通りを挟んで隣接する大阪市立歴史博物館には、発掘された遺構が展示されています。こちらの写真は『難波宮跡』上から撮影したものです。中央の建物が「大阪市立歴史博物館」、向かって左が「NHK 大阪放送局(JOBK)」、右が「大阪府警」です。前を通ってる中央大通りには阪神高速東大阪線が高架で通ってますが、この付近は一般道路と同じ様に阪神高速は平面に通っています。
「大阪市立歴史博物館」前の高架道路が下りになってるのがお解り頂けますか?
難波宮跡の遺構の保存と、難波宮跡公園から大阪城への景観を確保するために、この構造が採用されているようです。このような壮観な景色を楽しめるのも、景観確保の努力があっての事なんですね。
この付近は豊臣時代の大名・細川越中守忠興の屋敷があった場所で、越中井は細川家の台所跡に残る井戸だといわれています。
忠興の正室は洗礼名をガラシャという、熱心なキリシタンでした。
慶長5年、関ヶ原合戦の前、忠興の屋敷が石田三成の手勢によって取り囲まれた時に、ガラシャはキリスト教の教義によって自害ができなかった為、家臣に自らの胸を突かせて、屋敷に火を放って、壮絶な最期を遂げたといわれており、井戸は悲劇のシンボルになっています。
越中井から南へ真直ぐ約200mの所に、聖マリア大聖堂があります。大聖堂の入口の横には細川ガラシャの像と、キリシタン大名で知られる高山右近の像が建てられてます。こちらも越中井見学の後に是非見てくださいね。
大阪市中央区玉造にある『玉造稲荷神社』。坂道の途中にあるような感じです。創建は、垂仁天皇の治世であった紀元前12年と伝えられています。古代この付近一帯は「玉作岡」と呼ばれ、勾玉(まがたま)などをつくる玉作部が居住し、「玉造」という地名も勾玉(まがたま)造りが語源と言われてます。
『玉造稲荷神社』は豊臣・徳川時代を通して大坂城の鎮守とされ、豊臣秀吉が茶会を催していたとも伝えられています。現在の社殿は、第2次世界大戦で焼失したものを再建した社殿です。鳥居は大坂夏の陣と第2次世界大戦の戦禍を乗り越えましたが、平成7年の阪神大震災で基礎部分を損傷し、その後再建されました。
この神社は江戸時代には伊勢参りの出発点となっており、現在も境内の中に「伊勢参宮本街道」の案内板があります。江戸時代には沢山の方が、ここから旅立たれていったのでしょうね。
『玉造稲荷神社』境内には、豊臣秀頼公の石像と、昭和61年秋に開館した難波玉造資料館があります。古墳時代の家形埴輪を模した建物の中には、古代玉遺物、玉の歴史や玉作り工程、古代土器など貴重な資料が展示されています。
拝観の方は事前(1週間前迄)申込が必要です。入館料:大人100円
古代の玉製作を主題にした史料館は全国にはあまり無いようです。
外観を見るだけでも価値はありますので、事前予約をしていない方も是非見学してみてください。
この辺りは上町台地の為、坂道が多くなっています。地下鉄谷町4丁目で下車し難波宮を見学、越中井戸、玉造稲荷神社の順番で周り、森ノ宮駅もしくは玉造駅にでるコースだと、坂を下る形になるので楽に周れると思います。
谷町4丁目駅から玉造駅まで、徒歩で周って1時間ほど。玉造駅・森ノ宮駅はJRと地下鉄がどちらも乗入れしていますので、次の移動も便利です。一度お試しください。
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