強い気は平家の怨念?安徳天皇を祀るパワースポット下関 赤間神宮

強い気は平家の怨念?安徳天皇を祀るパワースポット下関 赤間神宮

更新日:2014/04/14 17:46

源平合戦で敗れわずが8歳で入水した安徳天皇を祀る下関の赤間神宮。入水した海を望むように建っているこの神宮は、本殿から海まで力強い気が満ちています。

平家と言えば落ち武者や怨霊などの伝説を耳にすることも。
気の正体は叶わなかった幸せを願う顕れなのか、それとも怨念か…。
平家滅亡の地にある平家ゆかりのパワースポット、赤間神宮をご紹介いたします。

もともと赤間神宮は安徳天皇を弔うお寺・阿弥陀寺だった

もともと赤間神宮は安徳天皇を弔うお寺・阿弥陀寺だった
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寿永4年(1185年)3月、平家は滅亡の時を迎えます。
安徳天皇は母が平清盛の娘・徳子(建礼門院)であったため、源平合戦で平氏が源氏に敗戦を重ねると、平家一門と一緒に都落ちすることに。
ここ下関の壇ノ浦の戦いで初めは優勢であった平氏も、潮の流れが変わると次第に劣勢になり、敗北が決定的となると安徳天皇の祖母である二位尼(平清盛の妻)が、安徳天皇を抱きかかえ入水。わずか8歳で生涯を終えます。
※京では寿永3年に元号を元歴に変えていましたが、平家は滅亡まで寿永を使用していました。

建久2年(1191年)、壇ノ浦を望むこの地に、時の後鳥羽天皇の命により御影堂が建立されます。当初は阿弥陀寺と称し、安徳天皇の霊を慰めるお寺で、勅願寺でもありました。
明治維新後の神仏分離令により阿弥陀寺を廃し、新たに天皇社を設立、赤間神宮となります。
最初から安徳天皇を神として祀ったわけではなく、お寺を神宮へと転向させているからでしょうか、パワースポットであるこの神宮には何か通常の神社とは異なる気が漂っています。

アクセス
電車:JR下関駅〜バス赤間神宮下車
 車:中国自動車道 下関IC〜県道57号〜R9号経由 約3.5km

竜宮造りと「水天門」の名前の由来

竜宮造りと「水天門」の名前の由来
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今ぞしる みもすそ川の おんながれ 波の下にも 都ありとは

これは二位尼が入水する際に詠んだと言われる歌で、「海の底にも都はあります」という意味。
この歌に因み、太平洋戦争で焼失した赤間神宮を再建する際に「竜宮造り」という竜宮城をイメージした造営となりました。関門海峡の脇に建つ華やかな神宮。今は安徳天皇や平家一門はここを都としているのでしょうか。
この神宮の造りも、他の神社と異なる何かを感じる要因なのかも知れません。

上の写真は「水天門」といいますが、この名前は安徳天皇が安産で有名な「水天宮」に祀られていて、水天大神と称せられたことに由来します。
建礼門院に仕えていた、按察使(あぜち)局・伊勢は壇ノ浦の戦い後、平氏の菩提を弔うため九州の筑後川辺りまで逃れ、祠を建て安徳天皇を始め平家一門の霊を祀りました。伊勢は尼となりますが、加持祈祷の霊験があらたかで人々の尊崇を集め、やがて水天宮の起源となります。そのため水天宮には安徳天皇や二位尼・建礼門院が祀られているのでした。

小泉八雲の怪談「耳なし芳一」の舞台

小泉八雲の怪談「耳なし芳一」の舞台
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「耳なし芳一」は、誰しもが聞いたことがあると思います。
小泉八雲の怪談に出てくる話ですが、その舞台がこの阿弥陀寺(赤間神宮)。琵琶の名人であった盲人の芳一のことです。昔は盲人は琵琶を弾き、平家物語などの物語を琵琶に乗せて語っていました。
この芳一の琵琶があまりにも見事であったため、平家の亡霊がぜひ聞きたいと、ある夜芳一を連れ出します。そこにはたくさんの平氏の武将がおり、女子供もいました。「壇ノ浦の合戦」の件に、平家一門の亡霊は、芳一の琵琶の音・語りに涙を流します。
満足した平家の亡霊は「7晩聞かせて欲しい」と頼み、芳一は毎夜言われたとおりに出かけました。
毎夜のことなので、寺の僧が不審に思い後を付けたところ、芳一は暗闇の中お墓の前で琵琶を弾き、平家物語を語るその周りにはたくさんの鬼火が…。
これでは芳一は平家の怨霊に憑き殺されてしまうと、阿弥陀寺の和尚が芳一の全身に般若心経を書き「今夜は声を出さないように」と言います。
その晩平家の亡霊が現れましたが、芳一が見つかりません。呼んでも芳一は返事をしないように言われているので、返事はありません。平家の亡霊はふと、芳一の耳だけがあることに気づき「せめて耳だけ持って帰ろう」と耳をもぎ取って行きました。
耳だけはお経が書いていなかったのです。

この耳なし芳一のお堂の横には平家一門のお墓が…。

強い気の正体は平家の怨念?思いが込められたパワースポット

強い気の正体は平家の怨念?思いが込められたパワースポット
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この赤間神宮は本殿から海の間に、とても強い気が満ちるパワースポット。
しかしこの神社に祀られているのは安徳天皇で、境内には平家一門の墓もあるのです。この気の正体は怨念なのか、それとも悲しくも敗れ去った者が、現世の人々の幸せを願い見守っているものなのか…。

耳なし芳一の話にもあるように、平家=怨霊といったイメージがなんとなく付いてまわります。

その理由は平家の滅亡からわずか4ヶ月後、元歴2年(1185年)7月に発生した「文治の大地震」。現代のように地震のメカニズムなど解明されていなかった時代、地震のような天変地異は恨みを持って亡くなった人や、非業の死を遂げた人の祟りだと考えられていました。平家の滅亡後に大地震が起きたため、安徳天皇や平家の一門の「怨霊」が言われることになったようです。
実際にはわずか8歳で亡くなった安徳天皇に、世の中を恨むような気持ちがあったことは考えにくく、平家の武将も平家物語では潔く死を選んでいることから、恨みではなく栄枯盛衰を感じていたのではないでしょうか。

ご利益は水難除け、家内安全、開運招福、国家鎮護、安産祈願など。
幼くして入水により生涯を終えざるを得なかった、安徳天皇の願いが込められている気がします。

最後に

赤間神宮は、普通の日本の神社とはまるで異なる雰囲気が漂い、パワースポットとしても並々ならぬ気を持っています。
幼くして命を落とした安徳天皇や、栄華を極めながら儚くも滅びた平家に思いを馳せながら、この赤間神宮を訪れてみてはいかがでしょうか。

掲載内容は執筆時点のものです。 2005/10/10 訪問

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