写真:乾口 達司
地図を見る2011年にオープンした今城塚古代歴史館では、出土品を単に展示するだけの従来型の博物館形式から脱却し、より踏み込んだ形で古代史の魅力を伝えようとする工夫が、随所になされています。その代表例が、この再現像。今城塚古墳に眠る被葬者の姿が、埋葬当時の状態で再現されています。発掘調査の結果、すでに崩壊していたとはいえ、石室内には3基の石棺が納められていたことが確認されています。そのうちの1基に、継体天皇と思しき古代ヤマト王権の大王が眠っていたことはほぼ間違いないと考えられていますが、写真をご覧になって、ギョッとされた方も多いでしょう。このリアリティに富んだ演出が、今城塚古代歴史館の特徴の一つとしてあげられます。
写真:乾口 達司
地図を見る写真は、今城塚古墳の巨大な復元模型です。6世紀前半に築造された今城塚古墳は淀川流域で最大級の前方後円墳。周囲は二重の濠でめぐらされており、その規模は、外濠までふくめると、何と約350メートル!後円部に比べて、前方部が大きく開き、巨大化しているのも、この時期の前方後円墳の特徴です。
画面の左手、外濠に張り出した区画が見えるでしょう。これは「埴輪祭祀区」と呼ばれている区画で、その名のとおり、築造当時はこの区画に人物埴輪や動物埴輪、家形埴輪などが数多く並べられていました。その規模は東西約65メートル、南北約6メートル。日本最大の規模を誇ります。古代ヤマト王権の大王墓にふさわしい堂々たる姿ですよね。
写真:乾口 達司
地図を見る写真は「埴輪祭祀区」から出土した埴輪の陳列コーナー。バラバラになって出土した埴輪を丹念につなぎあわせ、制作当時の姿に復元してくれているので、古墳の築造当時、「埴輪祭祀区」にどのような埴輪が並べられていたか、一目瞭然ですね。そのなかには等身大の高さを持つ日本最大の家型埴輪もふくまれており、埴輪の規模や種類からいっても、今城塚古墳が当時の大王墓にほかならないことがうかがえます。
写真:乾口 達司
地図を見る床下の石垣のようなもの、いったい、何だと思いますか?これは「石室基盤工」の一部を復元したものなのです。今城塚古墳では、相当な重量を持つ石室が沈み込まないため、石室を下から支える大規模な石組みの遺構がしつらえられていました。この石組みの遺構は一般に「石室基盤工」と呼ばれており、当時、最先端の土木技術であったことが判明しています。今城塚古墳の革新性が「石室基盤工」の導入からもおわかりになるでしょう。
写真:乾口 達司
地図を見る留意したいのは、今城塚古代歴史館が、今城塚古墳に特化したミュージアムではないということ。より幅広く、北摂地域の古墳や遺跡が研究・展示対象となっているため、館内には、今城塚古墳以外の古墳や遺跡から出土したものも、数多く展示されています。
なかでも、阿武山古墳のコーナーに注目しましょう。阿武山古墳は、高槻市と茨木市にまたがる阿武山の山腹に築造された古墳。戦前におこなわれた発掘調査の折、地面の下から墓室が発見され、なかから60歳前後で亡くなったと思われる男性のミイラ化した遺体が発見されました。その遺体の状況や出土品の壮麗さから、被葬者は中大兄皇子(後の天智天皇)とともに蘇我氏を打倒し、大化の改新を推し進めた藤原鎌足ではないかという説も出されています。
ご覧のように、被葬者の様子を撮影したパネル写真のほか、被葬者=藤原鎌足説の有力な根拠となっている金糸製の織冠や玉枕の復元模型も展示されており、戦時中の不充分な調査の後、ふたたび埋め戻されてしまったがゆえに、いまだ、数々の謎を残す阿武山古墳の実像に迫るのに参考となります。
今城塚古代歴史館が、今城塚古墳はもちろん、それ以外の古墳や遺跡の実像に迫るのにも格好のミュージアムであることが、おわかりになったのではないでしょうか。今城塚古墳の脇に設置されているため、今城塚古墳を見学する際はまず当館に立ち寄り、その実像をあらかじめ学んでから出向くのも一計でしょう。継体天皇や藤原鎌足など、古代史を彩る人々と深い関わりを持つ当地の歴史を学ぶスポットとして、足を運んでいただきたく思います。
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(2024/4/23更新)
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