写真:乾口 達司
地図を見る当地の発展の礎となったのは、茨木城。建武年間、楠正成によって築かれたともいわれています。築城後、周辺地域は城下町として次第に整備されたようで、やがて「茨木」の名の由来ともなった茨木氏が台頭。細川晴元政権下の室町幕府きっての実力者ともなりますが、茨木氏が強大な権力を握るようになった背景に、都と上方とを結ぶ交通の要衝として繁栄した茨木城の存在があることは、容易に推察できるでしょう。茨木氏の没落後は中川清秀や片桐且元といった武将たちが入城しますが、慶長20年(1615)、徳川幕府の発布した一国一城令にともない、廃城となりました。
茨木城の遺構としてまず挙げられるのが、市の中心部に位置する茨木神社の東門。これは茨木城の搦手門を移築したものですが、装飾性を排した豪壮なたたずまいが境内に点在する神社建築とは一線を画しており、広大な城域を持っていたとされる茨木城の隆盛をしのぶことができます。
写真:乾口 達司
地図を見る茨木城の遺構は、ほかにも確認されています。写真は、茨木城の廃城後、奈良県大和郡山市の慈光院に移設された櫓門を原寸大で復元したもの。現在は茨木市立茨木小学校の正門として使われています。中世の城門が小学校の正門として再利用されている例は珍しく、戦国マニアにはたまらない建造物でしょう。ちなみに、ここ、茨木小学校の敷地付近に、茨木城の本丸部分があったと推定されています。
写真:乾口 達司
地図を見るJR茨木駅から北へ徒歩約10分あまり。住宅地にひっそりたたずむ倍賀春日神社(へかかすがじんじゃ)の境内に安置されているのは、高さ約190センチメートルの石燈籠。国の重要文化財に指定されています。表面に刻まれた銘により、延慶2年(1309)、高良社に奉納された後、当地に移された石燈籠であることが判明しています。銘を刻んだ石燈籠としては周辺地域で最古のものですが、そんな貴重なものが住宅地にかこまれた小さな神社に残されているとは、びっくりですね。茨木の豊かな歴史性をしのばせる逸品です。
写真:乾口 達司
地図を見る『伊豆の踊子』や『雪国』の作者として、日本初のノーベル文学賞に輝いた川端康成。その名を知らない人はいないでしょう。しかし、その川端が茨木と深い関わりを持っていること、ご存知でしたか?
川端は1899年に大阪市内で誕生しますが、幼少期に両親を失い、父方の祖父母のもとに引き取られました。その祖父母が暮らしていた地こそ、現在の茨木市なのです。大阪府立茨木中学校(現在の大阪府立茨木高等学校)に進学した川端は、その後、旧制第一高等学校(一高)、東京帝国大学へと進み、やがて日本近代文学を代表する作家となりました。
館内には川端の著書や遺品、書簡などが多数展示されており、茨木の地が、当時、思春期にあった川端の思想形成に重要な役割を果たしていたことがうかがえます。
写真:乾口 達司
地図を見る街中を歩くと、写真のような石像をあちこちで見かけるでしょう。写真の石像は茨木神社脇の石橋の上に立っているものですが、この子、いったい誰だと思いますか?実は茨木童子と呼ばれる伝説上の鬼なのです。
伝承によると、茨木童子は水尾村生まれ。生まれながらにして歯が生え揃い、鬼のような姿であったといいます。血の味をおぼえた童子はやがて大江山に住む酒呑童子の配下となり、乱暴狼藉をはたらきましたが、都からやってきた源頼光一行によって討伐されました。
現在、茨木市では、茨木童子をご当地キャラとして精力的にPRしています。乱暴狼藉を働いたといえば、ネガティブに受け止められがちですが、それを写真のような愛らしい姿に造形すると、親しみが持てますね。
ごくありふれた地方都市のように見られがちな茨木市。しかし、意外や意外、その中心部に数々の歴史や伝承が残っているのが、おわかりになったのではないでしょうか。弥生時代の大規模環濠集落の痕跡を残す東奈良遺跡など、ほかにも数々の歴史遺産があり、古代史の愛好家にも、ぜひ、訪れていただきたいところ。茨木へは大阪の中心部から電車で二十分足らず。気軽に訪ねられる位置にあるので、茨木市に残る意外な歴史をご自身で発見してみてください。
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(2024/4/18更新)
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