近鉄大和朝倉駅から南に歩いて20分の忍阪は、大化の改新以来、現代までの天皇家のルーツとなった押坂王家のあったところ。
しかし、この猫のひたいほどの小集落は、そんな晴れがましい素振りをいささかもうかがわせることなく静まり返っている。それもそのはず、忍阪の秘密はこの集落を包み込む外鎌山のふもとの奥の谷に隠されているのだ。
集落の中ほどから東へ折れ、小流れに沿い上ると、ゆくりなく立派なみささぎと出会う。古墳時代の掉尾を飾る八角墳とされる舒明天皇陵である。
この舒明天皇の第一皇子が、藤原鎌足の協力を得て蘇我本宗家を滅ぼした中大兄皇子(のちの天智天皇)で、わが国の律令国家への道を開いた功績者だ。
その御陵のさらに奥の谷は広く、ぽっかりと青空が開けて鏡王女墓、そして舒明天皇の皇女の大伴皇女墓が続いている。
鏡王女は天智天皇の妃であったが鎌足に下賜されてのち彼の正室となられたお方で、額田王とは母娘だとも言われている。
集落の入り口にある生根神社の祭神は額田部の始祖・天津彦根命(あまつひこねのみこと)で、集落を限る粟原川上流の粟原寺址も比賣朝臣額田(ひめのあそみぬかた)が建立したとされ、やたらと額田が出てくるもうなづける。
その初期万葉集の代表歌人・額田王(ぬかたのおおきみ)とは天智・天武両帝に仕えた巫女的才媛で、磁石の両極のように弾けあう両帝の間に入って押坂王家の系譜を後世につなげた重要人物であることは、政治劇として万葉集を読み解けばただちに理解できる。
忍阪集落の中ほどの小高い丘にある石位寺は、この複雑な事情の絡んだ忍阪を親しみある土地柄にした素晴らしい石仏が安置されている。ほのかに朱の残る裳裾といい、その彫りの確かさといい、今をさかのぼること1300年前の白鳳時代に造られたとは思えないくらい保存状態がよく、三尊像の前に座るとその慈愛に満ちた表情に魅せられ、不信心の僕でさえ自然と手を合わせていたほどだ。
写真は撮影禁止のため、買い求めたポストカードのものだが、言語に絶する造形美をたたえた三尊像の真実を的確に捉えているとは言い難い。
忍阪集落には、その衣を通して美しさが匂い立つと言われた衣通姫(そとおりひめ)の産湯の井戸が玉津姫神社の小祠脇に残され、古来よりその井水を産湯に使うと美人になるとされてきた。
『古事記』『日本書紀』に伝わる悲恋の物語の主人公の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と軽大娘皇女(かるのおおいらつめのひめみこ=衣通姫)は、忍坂大中津比売命(おしさかのおおなかつひめのみこと)の同母兄妹とされる。
古代では同じ母から生まれた兄弟の恋愛はタブーとされたため悲劇が生じたと言われている。宝塚歌劇でも脚色・上演されたので、小野小町とならぶこの絶世の美女をご存じの方もおありだろう。
日本の古代史では蘇我系の推古・聖徳太子の上宮王家の興亡に焦点が当たり、忍阪の政治ドラマはこれまで等閑視されてきたが、奈良盆地と東国の伊勢・伊賀、あるいは大宇陀へと抜ける交通の要衝であったこの山すその小天地は、知れば知るほど面白い土地柄なのである。
この忍阪は、夥しい古墳があることでも有名で、その中のいくつかは内部を見ることができるので墓マイラー(※)たちのメッカとなっている。
忍阪集落を抜け大宇陀方面へ国道166号線を登った倉橋溜池の手前にある天王山古墳はそのひとつで、人ひとりがかろうじて滑り込むことのできる入口を抜けると内部は意外と大きく、明日香の石舞台同様の石組と高い天井の玄室が広がっている。
懐中電灯で照らし出すと大きな石棺が当時のまま据えられていて、ひやりとした冷気に包まれる。
そこから粟原寺址(おうばらじあと)までは近い。
山畑のこんもりとした林の中の平地に伽藍の礎石や石塔が残されている。石位寺の三尊石仏も本来この場所に安置されていたという。
※墓マイラー:歴史上の人物や著名人の墓を巡り、故人の足跡に思いを馳せる人たちのこと。
忍阪集落の武器庫遺跡をのぞき、粟原川を桜井方面に渡ったところに鎮座まします山口神社は、剽軽な狛犬の表情もさりながら、この境内の楠の巨樹は金閣寺造営の際に用いられた楠の二代目と言われている。
訪ねてみると、なるほど切り株更新のなされた比翼連理形のくすのきの老木が人気のない神社の空を覆っていた。
この神社も忍阪坐生根神社同様、由緒ある延喜式内社でこの小さな集落に二つも式内社が存在するというのも、忍阪のかっての栄華が偲ばれようというもの。
忍阪(押坂・忍坂)は、小集落ながら、見どころが多く歴史的にも見逃せない貴重な史蹟を数多く擁している。
粟原川をはさんで忍阪の西は、物部の始祖ニギハヤヒが天降ったとされる鳥見山(とみやま・245m)で、その山すそを165号線に沿い西に取ると徒歩10分ほどで壬申の乱で天武を助け活躍した高市皇子の母を祀る宗像神社に至り、さらに20分ほど歩き鳥見山の西側に回ると格式の高い等彌(とみ)神社に至る。
ここから鳥見山頂上までは片道30分ほどのコースなので、もし体力に余裕があれば登ることをお勧めする。
肩の部分が白庭山で、頂上には神武天皇が大嘗祭のはじまりとされる祭祀をとりおこなった霊畤(まつりのにわ)の石碑が立っている。わが国黎明期の史蹟巡りはここに始まると言っても過言ではない。
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