新潟・春日山城跡と上杉謙信公御守護・災難から身を守る最強お守り!

新潟・春日山城跡と上杉謙信公御守護・災難から身を守る最強お守り!

更新日:2014/03/06 11:58

新潟県にある春日山城跡は建物は残っていませんが、遺構だけを見ても要塞のような山城であることがわかります。
戦国時代、その春日山城を居城としていたのが「越後の龍」と言われた上杉謙信。
その上杉謙信が子供時代を過ごし、菩提寺でもある林泉寺にはなんと「上杉謙信公御守護」の災難除けの最強のお守りがあるのです。
上杉謙信に見るお守りのパワーと、謙信ゆかりの春日山城跡・林泉寺をご紹介します。

義に篤く武勇知略に優れた上杉謙信は毘沙門天の生まれ変わり?

義に篤く武勇知略に優れた上杉謙信は毘沙門天の生まれ変わり?
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上杉謙信は亨禄3年(1530年、室町時代)、越後守護代の長尾為景の末子として生まれました。幼名は虎千代。7歳の時に曹洞宗の林泉寺に預けられ、厳しく文武の道や「第一義」の教えを受け、このことが後に「義に篤い」と言われる上杉謙信の素地となったものと考えられています。
14歳で元服、長尾景虎と名乗り、兄晴景が病弱であったため19歳で越後守護代になりました。当時内乱が後を絶たなかった越後を22歳の若さで平定。永禄4年(1561年)関東管領職の上杉憲政からその職と上杉姓を譲られます。(謙信の名を称するのは元亀元年(1570年)頃)

内乱や一向一揆の鎮圧、関東の北条氏康や甲斐の武田信玄と敵対し、生涯に渡りその戦の回数は70回以上。村上義清や関東管領の上杉憲政など頼ってきた武将も多く、私利私欲による戦はなかったといわれています。戦場では自ら駆け回って采配を振るい、負けたのはたったの2回。武勇戦略に非常に優れた戦国時代きっての名将でした。

戦の旗印は「毘」と「龍」。この「毘」はもちろん毘沙門天。
謙信は真言密教の北方を守護する軍神・毘沙門天を篤く信仰し、春日山城に毘沙門堂を造り、毎日ここに籠っていたといいます。毘沙門天の生まれ変わりとも言われ、謙信自身もそう信じ込み「我を毘沙門天と思え」の言葉が残されています。その為、戦場に「毘」の文字の旗が翻ると大いに士気が上がりました。

当時から「義に篤い武将」で知られていた上杉謙信。
「敵に塩を送る」という有名な言葉がありますが、これは武田信玄が駿河の今川氏真に塩を止められた際、上杉謙信が塩を送ったことから生まれた言葉。(甲斐は山国なので塩が採れなかった)
また武田信玄が死に際し跡継ぎの勝頼に「上杉謙信は義理堅い武将なので、人に頼られれば決して見捨てることはしない。自分の死後は謙信を頼れ」と遺言したという話も残されているほどです。

天正6年(1578年)、関東への出兵(一説には京への上洛)を前に倒れ、49歳の生涯を閉じました。

新潟の自然の地形を利用した要塞、春日山城

新潟の自然の地形を利用した要塞、春日山城
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春日山城はいつごろ築城されたのか詳しいことはわかっていません。自然の地形を巧みに利用して石垣の代わりに空堀や土塁を築き、天守閣を持たず、周囲の山に砦を作るといった典型的な山城でした。謙信の父の長尾為景の手により城塞化されたと考えられています。

上杉謙信亡き後は上杉景勝が後を継ぎますが、慶長3年(1598年、安土桃山時代)に豊臣秀吉の命で会津へと移封になります。
景勝に代わって堀秀治が越後に入り、居城としましたが、慶長11年(1607年、江戸時代)直江津港付近に福島城を築城したため、春日山城は廃城となりました。

現在では当時の建物は残されていませんが、大手道や謙信が籠ったとされる毘沙門堂が復元され、「景勝館跡」「直江屋敷跡」といった標識が建てられています。空堀や土塁が残り、枯れたことのない大井戸は450年経った今でも水を湛えていて、遺構から十分にその要塞ぶりを知ることができます。また本丸付近からは遠く日本海まで望むことができ、坂を登って来た後に眺める景色は最高です。

「山」とつくだけあって坂や階段が多く、歩くと1時間〜1時間半はかかりますので、訪れる時は歩きやすい服装の方が良いでしょう。
夏の終わりにはオニヤンマやギンヤンマが見られ、今でも自然豊かなところです。

アクセス
電車:信越本線 春日山駅 登山口まで徒歩20分
 車:北陸自動車道 上越IC〜R18号〜R8号経由約7km

子供時代の上杉謙信に大きな影響を与えた林泉寺

子供時代の上杉謙信に大きな影響を与えた林泉寺
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上杉謙信が7歳から過ごした林泉寺は春日山城のすぐ隣にあります。
明応6年(1497年、室町時代)に、越後国守護代の長尾能景(よしかげ)が、亡き父の菩提を弔うため長尾家の菩提所として創建しました。(上杉謙信は長尾能景の孫)
上杉家の後に越後に入った堀氏もこの林泉寺を菩提寺とし、境内には上杉謙信や堀氏3代の墓の他、川中島合戦の供養塔も建てられています。

春日山城の搦手(からめて)門を移築したと伝えられる惣門。驚くほど質素な門は搦手門だからなのか、山城ゆえなのか、謙信の性格からなのか…当時を伝える唯一の、貴重な建造物です。
宝物館では上杉謙信の肖像画や謙信直筆の「春日山」「第一義」の大額など、ゆかりの品を展示。なお山門には謙信直筆の大額の複製品が掲げられ、訪れる人を出迎えてくれます。

上杉謙信の死後、亡骸は漆を塗り鎧を着たまま甕に入れられ、この林泉寺に葬られました。(その後、上杉家の移封に伴い、会津〜米沢へと改葬されたといわれています)
毘沙門天の生まれ変わりとして、死後もなお戦い、人々を守り続けているのでしょう。

林泉寺
拝観時間:9時〜17時
 拝観料:一般500円 小中学生250円

上杉謙信公御守護の災難除け最強お守り

上杉謙信公御守護の災難除け最強お守り

この林泉寺に上杉謙信公御守護の災難除けの最強のお守りがあります。
このお守りがどれくらい強力かというと…

太平洋戦争の時群馬県のとある村で、出兵する40〜50人すべてにこのお守りを持たせたそうです。戦争終了後、その村の人は一人も欠けることなく全員帰還したとのこと…
さらにこのお守りの持つ力は災難除けに止まらず「剣道の大会で優勝した」なんて話はざらにあるそうです。

筆者も20年ほど前にこのお守りを購入したことがあり、このお守りを持っていると他のお守りがすべて無くなってしまいました。よく「お守りを複数持っていると神様同士が喧嘩する」ということを耳にしますが、それは流説。しかし、このお守りを持っていると他のお守りが無くなってしまうので、このお守りをタンスの奥に閉まったところ、他のお守りが消えることはなくなり…その後このお守りはお寺に返してしまったと思っていました。(この話をお寺の方にしたところ「あれあれ謙信さんも困ったもんだ」と笑っていました)
数年前に訪れた時、このお守りを再度購入しましたが「ほかのお守りと仲良くするように」言っておいたので、お守りが無くなることはありません。

最近20年前に買ったこのお守りが出てきました。本当はいけないのだと思いますが気になって中を開けてみると、「謙信智慧 御守護」と書かれた紙が版木を包んでいて、手が痛くなるように重く感じ、今でもその力が宿っていました。普通お守りはその期限が1年と言われていますが(祈祷されているのが1年のため)、このお守りに関しては期限がないそうです。

お守りが最強な理由

このお守り袋に刺繍されている文字は「毘」と「龍」。上杉謙信の軍旗と同じです。現世を戦場ととらえ死後もなお戦っているのかもしれません。
上杉謙信は武勇智略に優れたていただけでなく、毘沙門天の生まれ変わり、義に篤く頼ってきた人は守るといった一面がありました。
そういう人物であったからこそ、きっとお守りの持ち主を守ってくれているのでしょう。
上杉謙信公の守護を受けに、春日山城跡と林泉寺を訪れてみてはいかがでしょうか。

この記事の関連MEMO

掲載内容は執筆時点のものです。 2010/09/29 訪問

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