桜の名所函館五稜郭に今もなお残る、新撰組副長・土方歳三埋葬伝説!

桜の名所函館五稜郭に今もなお残る、新撰組副長・土方歳三埋葬伝説!

更新日:2014/02/26 12:10

函館・五稜郭はいわゆる日本のお城と違い、西洋式の星の形をした日本では珍しいお城です。
明治維新の戊辰戦争時には、旧幕府軍が最後の拠点を置き「蝦夷共和国」を設立、箱館戦争の舞台に…。
今では春になると1600本ものソメイヨシノが咲き、絶好のお花見スポットにもなっています。
そんな五稜郭に箱館戦争で討死した、新撰組副長土方歳三が埋葬されているという伝説が今もなお残されているのを御存知ですか?

元々は箱館奉行所が置かれていた五稜郭

元々は箱館奉行所が置かれていた五稜郭
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五稜郭は、安政元年(1854年、江戸時代)の日米和親条約により箱館・下田を開港することになったため、防御の要として箱館山山麓にあった箱館奉行所を移転するために造られました。(※明治初期までは「函館」ではなく「箱館」表記)
蘭学者の武田斐三郎(あやさぶろう)が設計して元治元年(1864年)に完成。西洋の要塞都市を真似た星形五角形のその形が「五稜郭」と呼ばれるようになった由来です。南北・東西の直径はそれぞれ500mで、国の特別史跡に指定された大きさは東京ドーム約5個分、内堀の中だけでも約3個分はあります。
実際に箱館戦争の舞台となったこの五稜郭の中に足を踏み入れると、何か特別な静けさ、哀愁みたいなものが漂っているような気がするのですが、それは筆者だけの感慨なのでしょうか。

明治4年(1871年)に五稜郭にあった建物はすべて取り壊されますが、平成22年に当時の史料に基づき、五稜郭の中央部分に箱館奉行所が復元されました。72畳もの広さがある大広間や奉行の執務室であった表座敷などが忠実に再現され、五稜郭と箱館奉行所の歴史を解説しています。

またすぐ近くにある「五稜郭タワー」の展望台からはこの五稜郭を見下ろして綺麗な星の形を見ることができます。残念ながら地上からはその形はわからないので、ぜひこの綺麗な星の形を上から眺めることをお勧めします。

五稜郭公園アクセス
JR函館駅より市電「五稜郭公園前」下車 徒歩15分

箱館奉行所
開館時間:4月〜10月 9時〜18時
     11月〜3月 9時〜17時
 入館料:一般500円 学生・児童250円

五稜郭タワー
営業時間:4月21日〜10月20日 8時〜19時
     10月21日〜4月20日 9時〜18時
  料金:大人840円 中高生630円 小学生420円

戊辰戦争・幻の国「蝦夷(えぞ)共和国」と土方歳三

戊辰戦争・幻の国「蝦夷(えぞ)共和国」と土方歳三
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御存知ない方のために、戊辰戦争と蝦夷共和国について簡単に触れておきます。

慶応3年(1867年)徳川慶喜による大政奉還の翌年に、旧幕府軍と明治政府軍の間で戦が始まります。(戊辰戦争)京都の鳥羽伏見の戦いで敗れた旧幕府軍は、その後の戦でも敗走に敗走を重ねることに。
行き場を失った旧幕府軍の残兵は、旧幕府海軍副総裁・榎本武揚(たけあき)率いる艦隊に乗り込み、蝦夷(北海道)へと向かいます。その数は3000人を超え、この中には幕府の重臣永井尚志や、幕末に京都の取締で恐れられていた新撰組の土方歳三も含まれていました。
蝦夷に着いた榎本艦隊はこの五稜郭を占拠して、「蝦夷共和国」を設立。しかし旗艦の開陽丸が時化による座礁で沈没したため、後に政府軍の上陸を容易に許すことに…。
明治2年(1869年)3月、明治政府は討伐に乗り出し、戊辰戦争の最後の戦い・箱館戦争が始まります。

新撰組副長・土方歳三と言えば隊士から「鬼の副長」と恐れられていたと言いますが、新撰組隊士であった中島登が残した戦友絵姿には「赤子が母親を慕うように」慕われていた、と記されています。
土方の率いる部隊は二股口(現、北斗市台場山)を守り、激戦を強いられながらも連戦連勝。
しかし数に勝る政府軍に他の部隊が次々と敗れ、退路を断たれる可能性が出たため五稜郭へと引き返します。

5月11日、明治政府軍による箱館への総攻撃が行われ、土方歳三は一ノ木関門(現、函館市若松町付近)で敵兵に狙撃され戦死。
5月18日、榎本武揚が明治政府軍に降伏。蝦夷共和国はわずか半年ほどで終焉を迎えます。

戊辰戦争では軍艦に搭載されたものを含め、大砲が勝敗に大きな影響を与えていました。箱館戦争で使用された大砲が後に発掘され、五稜郭内に展示されています。

新撰組副長・土方歳三は五稜郭に埋葬されていた!?

新撰組副長・土方歳三は五稜郭に埋葬されていた!?

土方歳三が討死した後、その亡骸がどこに葬られているのかは謎に包まれています。函館山や願乗寺など諸説あるようですが、この五稜郭というのもその一つ。
討死後、五稜郭に運ばれたと云われていますが、根拠はそれだけではありません。

明治32年に行われた「旧幕府史談会」で「伊庭八郎の遺体は五稜郭の土方歳三の隣に埋葬された」という証言が残っているのです。伊庭八郎は土方とともにこの箱館で戦い討死した人物。
この「旧幕府史談会」は詩人戸川残花が主宰し、幕末維新を生き抜いた関係者の直接参加による「史談会」で、その談話は明治30年代に刊行された雑誌「旧幕府」に掲載されていました。その為かなり信憑性が高いと考えられています。

大正時代、伊庭八郎の埋葬地は調査により特定されました。それが上の写真、松の木付近の土饅頭。しかし、土饅頭を掘ったところ空であったとか。
明治16年の函館新聞の記事によると明治11年に土塁の修復工事の際、多数の遺体が見つかり願乗寺へ改葬(願乗寺でも改葬され、その場所は不明)とあるので、その中にあったのではないかという説もありますが、伊庭八郎が埋葬されたのが「土饅頭」であるとすれば可能性は低いものと思われます。

他にも大正15年には五稜郭から洋装の遺体が4体発見されていますが、それが土方の遺体であったのかどうかはわかっていません。

最初筆者がこの五稜郭を訪れた時この場所を探していたところ、まるで場所を教えるかのようにこの松の木の根元に花束が置かれていました。その場にいた工事の人の話だと前日まではなかったとか…。たまたまファンの方が置いて行かれたのだとは思いますが、なにか不思議なものを感じずにはいられませんでした。

今でもこの松の木の付近には、伊庭八郎とともに土方歳三が眠っているのではないかという伝説が残っているのです。

今では1600本の桜が静かに花を咲かせている

今では1600本の桜が静かに花を咲かせている
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大正時代になって五稜郭にはソメイヨシノが植えられるようになり、現在では1600本もの桜が毎年春を彩り、花見客で賑います。
そして、満開が過ぎると儚く散っていきます。まるでこの地に埋葬された人を静かに悼むかのように…。

剣豪でありながら俳句が趣味だったという土方歳三。今でもこの五稜郭の片隅で桜を眺めながら、一句詠んでいるのかも知れません。

    見頃:4月下旬〜5月上旬
ライトアップ:平日19時〜21時、土休日19時〜22時
       (期間は桜の開花時期による)

おわりに

土方歳三は明治政府軍からみれば憎き敵であったはずなので、もし遺体が政府軍に見つかってしまえば、おそらくその首は晒し首にされていたことでしょう。(現に新撰組局長であった近藤勇は戊辰戦争中に投降しましたが斬首、その首が晒されています)その為、土方を慕っていた旧幕府軍の人が見つからないように、地中深く埋めたことも考えられます。

歴史に興味のある方もない方もこの五稜郭で145年ほど前の、最後まで明治政府軍に抵抗した人々を思ってみてはいかがでしょうか。

掲載内容は執筆時点のものです。 2013/05/21 訪問

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