鞆の浦は古い歴史があります。古くは邪馬台国論争の元であり、卑弥呼の記載がある魂書東夷伝倭人条(通称:魂志倭人伝)の「投馬国」ではないかと推定されているほどなのです。それほど古くから栄えていた場所で、その後も歴史にたびたび登場しています。
いろは丸事件とは幕末に坂本龍馬が伊予国大洲薄から借り入れた船「いろは丸」と、徳川御三家の一つ紀州藩の「明光丸」が海上で衝突。龍馬が万国公法を利用し、紀州藩側の過失を追及した日本初の海難審判とされるものです。
物事の始めということで「いろは」と名付けられたいろは丸は長崎から大阪に、明光丸は長崎に向かっていたのですが、現在の岡山県笠岡市沖で衝突し「いろは丸」は航行不能になります。
そこで明光丸に引かれて港がある鞆の浦を目指しましたが、鞆の浦の南約10km付近で沈没。慶応3年4月23日(1867年5月26日)の出来事でした。
坂本龍馬はこの衝突があったことで鞆の浦に来たのであり、そして宿泊した桝屋清右衛門宅が当時のまま残されています。ここが一般公開されるようになったのは2011年からと、つい最近のことなのです。
坂本龍馬が宿泊した部屋は2階の隠し部屋です。そこに行くには階段を使うのですが、当時の階段場所が写真のこちら。今は上り下りが出来ません。現在利用されている階段は後から設置されたものです。
龍馬がいた部屋は天井のヨシズと床の畳を除き、宿泊した当時がそのまま残る貴重な場所。この場所で対紀州藩の交渉案を練っていたとされています。龍馬と同じ空間で、何が感じられるでしょうか。
なお、建物の1階は他の海援隊士が寝泊まりしており、その場所も残されています。
桝屋清右衛門宅跡から歩いて10分程、高台にある国史跡「対潮楼」は坂本龍馬と紀州藩の交渉の舞台となっています。
正式名称は真言宗大覚寺派福禅寺(ふくぜんじ)で創建は平安時代と古いものです。本堂と隣接する客殿が対潮楼となりますが、ここが作られたのは江戸時代です。江戸時代には多くの朝鮮通信使のための迎賓館となっていました。
対潮楼という命名は延亨5年(1748年)の通信使であった洪啓禧によるもの。その前の正徳元年(1711年)の通信使、李邦彦からは「日東第一形勝(日の昇る東の国で一番の景色)」と絶賛されています。
歴史的に絶賛されていただけあり、この場所は窓からの眺めが美しく、そこから観光船「いろは丸」の様子を見ることが出来ます。歴史的な景勝地で景色を楽しみながら、いろは丸事件の交渉の場であったことを感じてみましょう。
映画「銀魂」のロケ地の一つでもあるのが鞆の浦の灯台。ここも鞆の浦の観光地ですが、すぐ近くにあるのが「いろは丸展示館」です。
ここには今も沈没したままの「いろは丸」から引き上げた品々が実物展示されており、鞆の浦の観光地としては必見の場所と言えるでしょう。
紀州藩との交渉で、龍馬は強気の姿勢を見せます。いろは丸の積み荷としていたのはミニエー銃400丁、その他に銃火器約3万点、それだけではなく多額の金塊があったと主張。結果として83,526両198文、今の価値では約42億円という賠償が成立しましたが、それは長崎での出来事でした。
なぜなら紀州藩は鞆の浦での交渉を勝手に切り上げ長崎に向かったのです。龍馬一行はそれを追いかけて長崎に行き、「船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る」と歌まで流行させて交渉し賠償を勝ち取っています。
ところで、いろは丸に積載していたはずの銃火器類について複数回の海底調査、特に2006年の船体付近調査でも発見されていません。最初から積まれていなかったのか、途中で消えてしまったのか?
いずれにせよ相手が徳川御三家であっても「紀州藩なんぞ、なんちゃあ〜ない!」という気概あっての交渉が重要な意味をもったことに変わりはないでしょう。
その後、7万両に減額されたものの11月7日に長崎で決着しています。しかしながらその頃の龍馬は既に京都に居ました。そして11月15日は坂本龍馬の誕生日。同日深夜、京都の近江屋2階で暗殺されてしまうのです。
観光ボランティアとして長年この地で活躍している通称「鞆龍馬」こと大西公孝さんをご紹介。不定期とはなりますが週末は株屋清右衛門宅跡で歴史の説明をし、街中でも色々な歴史の裏話を披露してくれます。
大西さんは映画やドラマに時々出演していることから、あなたもどこかのシーンで見ているはずです。鞆の浦で鞆龍馬を見かけたら気軽に話しかけてみて下さい。旅がより一層深く、楽しくなるはず。
最後に、坂本龍馬の話で常に話題となるのは暗殺です。暗殺の実行犯は、はほぼ京都見廻組で決定とされますが、黒幕については多くの説がありその一つが紀州藩説。いろは丸事件による恨みがあったのでは、として根強いものがあるのです。
そして、龍馬亡き後の賠償金の行方について大洲藩への返済の他は、その多くが使途不明金となっています。三菱財閥の基礎となったという話もありますが、これも歴史のミステリーと言えるのでは。
福山市の鞆の浦のいろは丸事件関連ではこの他にも、「旧魚屋萬蔵宅」や「圓福寺」があります。「旧魚屋萬蔵宅」は賠償交渉が開始された場所とされ、今でも飲食、宿泊が可能です。そして「圓福寺」は紀州藩士が宿泊した場所。どちらも中心部から近く歩いて行けます。
もちろん、いろは丸関連だけではなく多くの神社仏閣があり、歴史的町並みを見て歩くだけでも過去にタイムスリップしたような錯覚を起こす美しき鞆の浦。ぜひとも足を運んでみて下さい。
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