写真:モノホシ ダン
地図を見るまずは飛騨高山の朝市に行ってみましょう。高山の朝市の開催場所は宮川沿いと高山陣屋前の2ケ所で、時間は毎朝7時から12時まで(冬季は8時から12時)です。一級河川の宮川(神通川)には美しい鯉も泳いでいます。
写真の宮川朝市をのぞむ鍛冶橋の欄干に立つ奇妙な像は、日本各地の社伝や神話に出てくる「手長・足長の像」で、高山祭の屋台のひとつ「恵比須台」に飾られている彫刻を銅像にしたものです。手長と足長は夫婦で、橋の反対側の欄干には妻の手長の像が立っています。手長・足長は不老長寿の神仙であったり妖怪としての扱いもあります。
写真:モノホシ ダン
地図を見る宮川朝市を楽しんだら、安川通りを渡って古い町並みの残る高山の定番スポット「さんまち」に行ってみましょう。さんまちとは、上三之町・上二之町・上一之町の3つを「さんまち通り」と言って高山のメインストリートとなっています。出格子が連なる軒下には用水が流れていて、造り酒屋には杉玉が下がるなど、古都情緒あふれる町家の造りが美しい通りです。
町家を使った食事処やカフェ、みやげ店なども多く、日中は絶えず観光客で賑わっています。おすすめは「飛騨牛コロッケ」や「飛騨牛串焼き」、あるいは「飛騨牛にぎり寿司」などの飛騨牛グルメです。朝市やさんまち通りで味わうことができるので、散策とともにぜひいただいてみましょう。
写真:モノホシ ダン
地図を見る昼間は観光客で賑わう「さんまち通り」も、夜はウソのようにひっそりと静まり返っています。町家から洩れる光が路上をほのかに照らし出す様子は幻想的でさえあります。時間があればぜひ夜の散策も楽しんでみましょう。
写真:モノホシ ダン
地図を見るつづいて「高山陣屋」をご紹介します。高山陣屋は、江戸時代に全国に60ケ所以上あったとされる郡代・代官所の中で唯一当時の建物が現存するもので、1929年(昭和4年)に国史跡に指定されました。この建物は、元は高山城主金森氏の下屋敷のひとつで、江戸時代中期まで金森氏が約100年高山を治めたのちに、1592年(元禄5年)飛騨の材木に着目した幕府により出羽(山形県)の上ノ山に転封となりました。
以後、高山は江戸幕府の直轄領となり、明治維新までの177年間に25代の代官・郡代が江戸から派遣されてきて、行政・財政・警察などの政務を行いました。なおよく時代劇などに出てくる「悪代官」というのがいますが、基本的には幕府は優秀な人材を抜擢して派遣していたので時代劇のような悪代官というのは稀な存在でした。
写真:モノホシ ダン
地図を見る高山陣屋で刑事関係の取調べを行ったのが、写真の「吟味所・御白洲」です。一般庶民は白洲、浪人や御用達町人は板縁、武士・僧侶・神官は縁側で吟味を受けました。
白洲には容疑者に自白させるための箒尻(ほうきじり)、重さ約40kgもある抱石(だきいし)などの拷問用具や重罪人や容疑者を入れて護送した通称、唐丸籠(とうまるかご)が置かれていて時代劇でよくみかける光景を彷彿させます。
写真:モノホシ ダン
地図を見る高山陣屋にある49畳の大広間は3つの部屋に分かれていて、公式の会議などに使用されました。なお書院造りのこの部屋からは庭園が見渡せます。高山陣屋にはほかにも年貢米を収蔵する御蔵(おんくら)、郡代が生活した嵐山之間などのみどころがあります。
写真:モノホシ ダン
地図を見る飛騨高山というと「高山祭」を思い出す方が多いと思いますが、高山祭の実物屋台を常設展示している施設が、桜山八幡宮の境内にある「高山祭屋台会館」です。高山祭は春と秋の年2回行われていますが、春(4月14日、15日)は日枝神社の山王祭で、秋(10月9日、10日)が桜山八幡宮の八幡祭のことをいいます。
高山屋台会館は、秋の桜山八幡宮の八幡祭で曳き出される11台の屋台を、年3回に4台づつ入れ替えて展示している施設です。「日本三大美祭」のひとつとされている豪華絢爛な祭屋台を楽しみましょう。
写真:モノホシ ダン
地図を見る高山祭屋台会館では日本一の大神輿を見ることができます。重さは約2トン半、80人の担ぎ手が必要と言われているものです。「飛騨の匠」の手による精巧な神輿や屋台には驚嘆させられることでしょう。
写真:モノホシ ダン
地図を見る高山祭屋台会館がある桜山八幡宮は、約1600年前の創建と言われている高山きっての古社で、旧高山城下の北半分の氏神様です。高山祭の屋台行事は、2016年にユネスコの無形文化遺産に登録されました。
写真:モノホシ ダン
地図を見る昔ながらの町家を見るなら、大新町伝統的建造物群保存地区にある「日下部民藝館」がおおすめです。日下部家は屋号を「谷屋」といい、天領時代に幕府の御用商人として栄えた商家で、役所の御用金を用立てする掛屋(かけや)をつとめ、後には両替商を営みました。当時の邸宅は1875年(明治8年)の高山大火で焼失し、4年後の1879年に完成したのが現在の建物です。
写真:モノホシ ダン
地図を見る日下部家を再建した棟梁は当時の名工「川尻治助」です。飛騨には昔から「貧乏したけりゃええ大工になれ」という言葉があります。古くから飛騨は大和朝廷に米税の代わりに、賦役として「匠(たくみ)」を毎年送り出しました。彼ら匠たちは奈良の平城京などの大規模建築物に従事しながら腕をみがき、「飛騨の匠」とのちに呼ばれる技術集団となりました。
そのため飛騨の匠の仕事にかける情熱は尋常ならぬ大変なものになり、名棟梁と言われる大工ほど納得がいかないと予算をオーバーしても自腹を切ってまでいい材料を使うことが普通だったそうです。日下部家を手がけた川尻治助もそのひとりで、自分の持てる技量のすべてを傾注し、豪快重厚な住宅を造り上げました。
写真:モノホシ ダン
地図を見る日下部家住宅のみどころは、がっしりと骨の太い柱の上に組まれた梁と束柱の木組みの力強い構成です。なかでもきらびやかな仏壇は当時300両(今の約1億円相当)をかけて作られました。隠しからくり仕掛けがあって、1875年の高山大火でも無事に運び出すことができました。
写真は飛騨の古磁器など各種民芸品を展示する土蔵の文庫蔵です。休憩所ではお茶とおせんべいの暖かいサービスが受けられるのも嬉しいです。日下部家は、明治建築の民家として隣接する吉島家住宅とともに、初めて重要文化財に登録されました。
写真:モノホシ ダン
地図を見る最後にご紹介するのが「飛騨国分寺」です。聖武天皇の命によって全国に建立された国分寺のひとつで、757年(天平勝宝9年)頃に建立された飛騨地方随一の古刹です。
写真:モノホシ ダン
地図を見る飛騨国分寺の三重塔は1820年(文政3年)に再建されたもので、高さ約22m、飛騨地方唯一の三重塔です。
写真:モノホシ ダン
地図を見る写真の本堂は室町時代のもので、ほかに境内では樹齢約1250年といわれる高さ約37mの大イチョウがあります。高山城から移築されたとされる鐘楼門も必見です。
飛騨高山のベストスポット5選はいかがでしたか。高山はどの季節に訪れてもすばらしく温故知新の旅を楽しめるところです。さらにアクティブに飛騨路の旅を楽しむなら、1泊2日の旅程で日本の原風景である「白川郷」とともに訪れてみてはいかがでしょうか?
高山濃飛バスセンターから白川郷へは、路線バスで片道約50分の距離です。飛騨を代表する2つのエリアの観光を同時に楽しむというのもおすすめです。なお白川郷については関連MEMOの記事もあわせてご覧下さい。
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(2024/3/28更新)
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