400年の歴史!長崎・庶民の食器「波佐見焼」発祥の地巡り

400年の歴史!長崎・庶民の食器「波佐見焼」発祥の地巡り

更新日:2017/09/05 09:34

肥後 球磨門のプロフィール写真 肥後 球磨門 一人旅ブロガー
豊臣秀吉が起こした慶長の役の頃、長崎県波佐見地区を治めていた大村藩主が朝鮮から陶工を同行して帰国。その陶工が1598年に登り窯を築いたのが始まりとされる波佐見焼。400年以上続く歴史ある波佐見焼きは、有田焼のような高価な焼き物ではなく普段使いの“くらわんか碗”を代表する庶民の陶器として江戸時代から人気がある焼き物です。
日々の生活に根ざした庶民向けの器を生産する「やきものの郷」波佐見町を紹介します。

波佐見焼の歴史を語る「陶芸の館」の源さん

波佐見焼の歴史を語る「陶芸の館」の源さん

写真:肥後 球磨門

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波佐見でまず訪れたいのが「やきもの公園」の一角にある波佐見観光物産館「陶芸の館」です。「やきもの公園」へのアクセスは長崎自動車道波佐見・有田ICから車で5分、公共交通機関利用の場合はJR三河内駅から嬉野方面行きのバスで15分です。

波佐見焼の歴史を語る「陶芸の館」の源さん

写真:肥後 球磨門

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物産館は二階建で、一階は波佐見町の各窯元が作った陶磁器が販売される「くらわん館」で、二階は波佐見焼きの歴史や陶磁器の材料などが紹介された明るい資料室になっていて自由に見学ができます。
資料館でのイチオシが波佐見焼の歴史を語る絵付師“源さん”で、波佐見焼きがなぜ「くらわんか碗」と呼ばれるようになったのかを絵付け作業をしながら教えてくれます。

くらわんか碗は、大阪や京都の川舟遊びをする客に、「飯くわらんか〜」「酒くわらんか〜」と飲食物を売りにきた茶船が、器が川に落ちても惜しくない安価な波佐見焼を用いたのが由来だそうです。
ぜひ足を止めて源さんの語りに耳を傾けてください。

世界各地の窯が勢ぞろい「やきもの公園」

世界各地の窯が勢ぞろい「やきもの公園」

写真:肥後 球磨門

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やきもの公園の丘は「世界の窯広場」になっています。
ここには古代から近世までヨーロッパや西アジア、中国など世界中で使われた12基の窯が再現されていています。

世界各地の窯が勢ぞろい「やきもの公園」

写真:肥後 球磨門

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「オリエントの窯」という古代エジプトやペルシャなどで古くから使用されていた窯や、徳利の形に似た「ボトルオープン(昇炎式窯)」と呼ばれるイギリスの代表的な焼物の産地「ストーン・オン・トレント」で使用されていた石炭窯など珍しい窯にお目にかかれます。

世界各地の窯が勢ぞろい「やきもの公園」

写真:肥後 球磨門

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中国磁器の代名詞ともいえる「景徳鎮」の窯も再現されています。

それぞれの窯についての詳しい説明や焼き物が出来るまでの分かりやすい絵図が、波佐見焼きの特徴である白地に美しい藍色で焼かれたプレートに掲示されているので、古代から現代まで続く焼き物の歴史や人類と器の深い関係が分かるおススメの場所です。

中尾山の窯元と共存した鬼木の棚田

中尾山の窯元と共存した鬼木の棚田

写真:肥後 球磨門

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焼き物公園から車で10分のところに田が何十段にも重なった「鬼木の棚田」があります。ここの棚田はさすが「日本の棚田100選」にも選ばれていて、展望所からその素晴らしい景色を望むことができます。
鬼木の棚田と隣接する中尾山の波佐見焼の窯元とは深い関係がありました。それは焼き物を運搬する時に割れを防ぐため棚田で取れたワラを使用していたからです。
波佐見焼きと共存した棚田の風景。四季折々に違う表情を見せる鬼木の棚田は風の音しか聞こえない静けさの中にゆったりと広がっています。

酒や醤油の輸出に用いられた「コンプラ瓶」

酒や醤油の輸出に用いられた「コンプラ瓶」

写真:肥後 球磨門

庶民的なくらわんか碗のほかにもうひとつ特徴のある焼き物が「コンプラ瓶」です。1790年に初めて作られ、1820年代から盛んに生産されるようになった、酒や醤油の輸出用に用いられた瓶です。コンプラ瓶が焼かれる前はオランダ商人らが持ってきたワインの空き瓶を利用していたそうですが、酒などの出荷量増加に対応するため、簡素な染付白磁の徳利型の瓶を作ったのが始まりで、中身を示すためオランダ語で「JAPANSCHZOYA(日本の醤油)」または「JAPANSCHZAKY(日本の酒)」と書かれています。
「コンプラ瓶」の“コンプラ”はポルトガル語で仲買人を意味する「コンプラドール(comprador)」に由来するといわれています。

酒や醤油の輸出に用いられた「コンプラ瓶」

写真:肥後 球磨門

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棚田に隣接する波佐見焼きの窯元が並ぶ中尾山で目を引くのが、まるでスキーのジャンプ台のような景色。これは昔使用されていた巨大な登り窯の跡で、ここでコンプラ瓶を沢山焼いていたのではないでしょうか。そして瓶が割れないように棚田で取れたワラを巻いていたのでしょうね。
鬼木の棚田と中尾山を訪れ、山里で続いてきた波佐見焼きの歴史に触れてみてはいかがでしょうか。

庶民の食器「波佐見焼き」の歴史に触れませんか

元禄時代、朝鮮半島からやってきた陶工によって始められた波佐見焼き。江戸時代は誤って川に落としてもいいようにと川遊びの船に飲食を提供する器として用いられ、丈夫さと使い勝手のよさ、手になじむ形などから庶民の食器として愛されてきました。

「陶芸の館」や中尾山にある「中尾山交流館」では手ごろな価格で波佐見焼きが販売されているので沢山の中からお気に入りを見つけるのもススメです。
生きているかのような絵付師の源さんから波佐見焼きの話を聞いたり、中尾山で波佐見焼きの歴史に触れたり、意外な発見がある楽しい時間を焼き物の郷「波佐見」で過ごしてみませんか。

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掲載内容は執筆時点のものです。 2016/12/10 訪問

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